正史『三国志』に注を付けた裴松之が史料として採用している『魏書』という書物があります。
執筆者は王沈という人物であり、魏(220年~265年)・西晋(265年~316年)に仕えました。王沈とは何者でしょうか。今回は『魏書』の執筆者である王沈について解説します。
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王允の一族として生まれる王沈
王沈は幷州太原郡の出身です。幷州太原郡の「王氏」は後漢(25年~220年)から隋(581年~618年)まで著名人を輩出した名門です。
代表的な人物は董卓暗殺に成功した王允です。王沈は王允の遠縁に当たる人物でした。王沈の父は東郡太守でしたが早死にしたので、王沈の養育は叔父の王昶が行います。王昶は皇太子時代の曹丕にも仕えていました。王沈の若い時の事績に関しては判明していませんが文章に優れていたことが史料に残されています。
連続クーデターに遭遇する王沈
やがて、成長した王沈は曹真の子の曹爽に仕えました。曹爽は何晏(何進の孫)・王弼(王粲の一族)・丁謐(曹植に仕えた丁儀の一族)・夏侯玄(夏侯尚の子)・・・・・・要するに名門の二世・三世を集めて政権を固めていたのです。
王沈もその中の1人だったのですけど、運が悪いことに魏の正始10年(249年)に司馬懿がクーデターを起こして曹爽を免職。さらに死刑にしました。この時、王沈も一味として免職されました。
運が悪いことは重なるものです。なんと、魏の嘉平3年(251年)に一族の王凌が魏の第3代皇帝曹芳を廃位する計画を立てていたことが発覚。観念した王凌は自殺に追い込まれます。王沈の心中は複雑だったと思われます。
『魏書』を編纂と権力者へのおもねり
やがて曹芳は廃位されて第4代皇帝曹髦が即位します。この頃になると、王沈も復職しており気ままな談論や著作を行っていました。王沈は曹髦から「文籍先生」と呼ばれていました。よほど博識であったことが分かります。王沈はこの時になり、有名な『魏書』を編纂します。
王沈の『魏書』は散佚したので全てを読むことは不可能ですが、唐(618年~907年)までは残っていたらしく、劉知機という人は『史通』という書物で、時の権力者(司馬懿・司馬師・司馬昭)におもねった記述をしていると非難しています。劉知機はさらに、「王沈なんて虎のエサにしろ!」と言ってます。最後のセリフは言い過ぎですけど、王沈が権力者におもねった記述をしたのはわけがあったと考えています。
おそらく、自己防衛でしょう。王沈は自分や一族がクーデターで免職や自殺に追い込まれています。再登用されても司馬一族からの目線は厳しかったと思います。王沈は「自分は敵ではありません」という態度を示したかった。
ただし、何で示せばよいか分かりません。考えた末に出したのが、歴史書の編纂でした。それも中身は時の政権に対して気に入られる記述!こうして、王沈は無事に過ごすことが出来ました・・・・・・かな?
3度目のクーデター
ところが、甘露5年(260年)に司馬昭に対して不満を持っていた曹髦がクーデターを計画。王沈はその計画に同僚の王業・王経と一緒に呼ばれました。笑いごとじゃないくらい、クーデターに縁のある男です。ちなみに一緒に呼ばれた王業・王経は王沈の一族ではありません。名字が一緒というだけです。
王沈からすれば、「またですか!」という感じでした。もうクーデターは嫌でたまりません。同僚の王業と一緒に司馬昭にチクることに決定。王沈は話を聞いて怒った司馬昭は賈充に命じて、曹髦の反乱を鎮圧!こうしてクーデターの巻き添えだけは免れた王沈でしたが、人々からは「不忠者」の烙印を押されることになりました。
王沈可哀そう・・・・・・
三国志ライター 晃の独り言
こうして王沈は魏が滅んで、西晋が建国された翌泰始2年(266年)にこの世を去りました。歴史を捻じ曲げることは良くないことですが、彼の場合は生きた時代の処世術の1つとして使われたのです。王沈の行ったこと全てを「悪行」とするのは良くないかもしれません・・・・・・
なお、王沈の子の王浚は西晋で皇帝になろうと企んだそうですが、それはまた別の話です。
※参考文献
・伊藤敏雄「正始の政変をめぐってー曹爽政権の人的構成を中心にー」(『中国史における乱の構図』雄山閣出版 1986年所収)
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