父である孫堅を突如亡くし、袁術によって孫堅の部隊は吸収されてしまう。
十七歳であった孫策はいずれ孫家を復興することを望みながら、袁術の元で力を蓄え反旗を翻す日を待つ……そしてその日はついにやってきた!
となるのが孫策の天下への名乗りの定番ですが、実は孫策は袁術を裏切りたくなかった?
そのきっかけはあの皇帝となった瞬間!?
ということで今回は袁術と孫策の縁の切れ目について、妄想たっぷりでお届けします。
孫策の臥薪嘗胆
まず確認しておきたいのが孫策が袁術の元を離れるまで。始まりは孫策の父である孫堅が、袁紹と袁術対立の際に袁術側に付いたこと。
しかし孫堅は戦闘の最中、黄祖によって殺害されてしまいます。孫堅の部隊は解散され、袁術軍に吸収。このため孫策は袁術庇護の元、雌伏の時を生きることになりました。
そして194年、袁術に対し父の軍の返還を求め、1000人ほどの兵を取り戻します。この中に黄蓋、韓当、程普といった孫堅股肱の配下たちがいたのでした。
197年に孫策は独立、この際に一時袁術の配下にいた周瑜が魯粛を連れて駆けつけます。こうして孫策の飛躍が始まるのです。
関連記事:頑張れ、孫策!独立への道のりを解説
関連記事:孫策は嫉妬深く陰険な人物だった?
袁術の躍進
袁術は名家袁家の子であり、袁紹とは同族に当たります。
が、反董卓連合軍時に袁術と袁紹は対立していき、曹操にボコボコにされたり、徐州に侵攻しようとしたら陶謙が死んで劉備に取られて敵対されたり、何気に呂布をそそのかせて劉備を徐州から追い出したりと頭の回ることもやっていく中、皇室の権力はどんどん落ちていきます。
そもそも黄巾の乱が起こるほどに乱れた世、董卓らの暴虐、そこに196年に献帝を曹操が保護したことで漢王朝の権力は、実際には「曹操の権力」になってしまいました。
ここで袁術、漢王朝の天命ここに尽きたと判断。そこまでは良かったとしてもとんでもないことをやらかします。
関連記事:これは意外!最初は漢王朝を庇っていた袁術
関連記事:【意外な事実】袁術は本当に伝国の玉璽を持っていた!
袁術、皇帝になる(自称)
197年正月、袁紹は寿春を都と定めて仲王朝を起こし、皇帝となりました。しかし皇帝とは本来、天に定められし尊き身分の者。実績があるから、身分がちょっと良いからでは皇帝になんか曹操……じゃなかった早々なれません。
もっと言えばこの時代、献帝という皇帝が曹操に保護されて、きちんと生きているのです。
結果として周囲からは大反発を喰らい、挙句の果てに重税に次ぐ重税で民衆からも大顰蹙。袁術は滅びへの道をスキップして進んでいくことになったのでした。
関連記事:閻象とはどんな人?袁術の暴挙を止めようとした恐れを知らない人物
【次のページに続きます】