姜維といえば蜀末期の武将で、必死に蜀を守った武将として知られています。最後まで蜀に忠誠を誓っていた姜維ですが、実はもともとは魏の武将でした。それがなぜ、蜀に仕えることになったのでしょうか?
今回の記事ではその経緯に迫ってみます。
この記事の目次
姜維の生い立ち
姜維は涼州天水郡(現在の甘粛省)の生まれです。姜維の一族はもともと「天水の四姓」と言われる名族でした。姜維の父も異民族の討伐に参加していましたが、そこで戦死してしまい、姜維は母子家庭となってしまいました。
長じて当時天水地方を領土としていた魏に出仕できることになり、父の功績により武将として軍事を担当することになります。当時の天水の太守(郡の長官)は「馬遵」という人物で、姜維は彼の元で働くことになります。
姜維が蜀に降伏した経緯は「やむを得ず」だった?
228年、姜維が26歳の時に諸葛亮は北伐を開始します。
そして天水地方の諸県を次々に降伏させることに成功します。このとき、太守であった馬遵は姜維らと各地の巡察に赴いていました。そして各地での降伏の報を受けると、住民が蜀に折り反乱を起こすのを恐れて姜維らを置き去りにして逃亡してしまいます。姜維らは馬遵を追い、彼が籠る城に到着しましたが馬遵は姜維たちも蜀に裏切ったかもしれないと疑い、彼らを城に入れることを拒否しました。
姜維は仕方なく郡の役所に赴きましたが、そこでも拒否されます。どうしようもなくなってしまった姜維らは蜀に降伏することにしたのです。
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母との永遠の別れ
後に諸葛亮は魏との戦いで敗北し、降伏した姜維らを連れて成都(蜀の首都)に帰還することになります。この時、姜維は魏の領地に残る母と離ればなれになってしまいます。
その母は姜維に魏に戻るように手紙を送ったのですが、姜維は「蜀で大いに出世したい、これが今の大きな望みなのです。」と返事をし、魏には帰りませんでした。
諸葛亮は姜維の事を「姜維は才能がある、涼州で一番かもしれぬ。軍事も深く理解しており、直ぐにも宮殿に連れいき披露したい。」と絶賛し、将軍職を授けました。そして諸葛亮の北伐に従軍することになります。
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小説「三国志演義」での姜維降蜀には脚色が!
小説「三国志演義」は蜀陣営が主人公なので、蜀の武将は美化される傾向にあります。姜維も諸葛亮の後継者として「演義」では優遇されていますので、降蜀の経緯も正史「三国志」とは若干違います。
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「演義」の姜維、諸葛亮を手玉にとる
小説「三国志演義」で天水に攻め入った諸葛亮は伏兵を使い、魏軍を攻撃しようとしました。姜維はそれを見抜き、三千の兵でその伏兵の裏をかきます。
伏兵を指揮していたのは蜀の名将「趙雲」で、このとき老年です。姜維は趙雲軍と戦うことになり、そこで趙雲と一騎打ちをすることになります。姜維は趙雲と互角に渡り合い、勝負はつきませんでしたがそこに魏軍が到来。趙雲は逃亡します。姜維は続けて攻め寄せてきた諸葛亮の本体も撃退し、諸葛亮を驚嘆させます。
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