姜維は諸葛亮亡きあとの蜀の中心人物です。彼は積極的に外征を行い、魏打倒を目指しますがそれを果たすことはできませんでした。
魏が蜀に侵攻した際には剣閣に立てこもり、武人としての最後の意地を見せますが、結局蜀は別ルートで攻略され、滅亡してしまいます。
さて、蜀滅亡後の姜維はどうなってしまったのでしょうか?
その最期に迫ってみます。先ずは姜維の生い立ちから見てみましょう。
この記事の目次
姜維、魏から蜀へ降伏する
姜維は天水地方に生まれ、元々はこの地方の豪族の出身でした。父は異民族討伐などに従軍していましたが、その戦いの中で戦死し、姜維は母子二人で過ごすことになります。後に魏に仕えることになり、父の功績から武将として軍事に携わるようになります。
そこに諸葛亮が北伐を開始。周囲が次々に降伏していく中で、姜維の上司は彼の裏切りを疑い、入城を拒否します。居場所がなくなった姜維はやむをえず蜀に降伏することになります。
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蜀軍の軍事を担うも、大願は果たせず
姜維は諸葛亮にその才能を高く評価され、蜀の軍事担当として活躍していきます。諸葛亮の死後は、蔣琬、費禕の元で諸葛亮の悲願である北伐を計画しますが、特に内政を重視する費?によって抑えられます。
費禕の死後、軍事権を握った姜維は連年の北伐を敢行。しかし、思ったような成果は上げられず、蜀の国力の衰退を招き、宦官に実権を握られた宮廷の混乱も抑えることはできませんでした。
そこに魏が蜀侵攻を開始。
が、鄧艾が別ルートで蜀の首都成都に迫り、蜀主劉禅は降伏。蜀は滅亡することになります。
姜維も降伏することになり、姜維と共に剣閣で守っていた諸将は石に剣をたたきつけて悔しがったといいます。
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姜維と鍾会、友情を築く
蜀が滅亡し、姜維は魏に仕えることになります。蜀攻めを行った鍾会は姜維の才能を高く評価していました。
鍾会が姜維に
「なぜ降伏が遅れたのだ?」と聞くと姜維は
「これでも早すぎたのだ」と答え、鍾会を唸らせました。
鍾会はかなり姜維に心酔していたようで、同じ車に乗り、姜維が赴く場に同席したりしたようです。
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姜維、鍾会の叛意を見抜く
鐘会は同じく蜀を攻めた鄧艾を讒言で逮捕させ、蜀の地の実権を握りました。そして密かにこの地での独立を計画していました。
鍾会と親密になっていた姜維はそれを見抜き、それとなく語りかけました。「君の大功は主君も恐れている。このまま無事でいられるだろうか。韓信(漢の功臣であまりの大功から謀反を疑われた)も結局死んだ。このような場合、引退するか、他の手段をとるしかあるまい。」と。
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姜維の計画
姜維は鍾会に魏の諸将を殺させ、彼らが死んだあとには鍾会も殺し、魏の兵もことごとく穴に埋めて、蜀を復興させようと計画しました。
そして密かに劉禅に、「陛下、数日の辱めをお忍びください。私は危機に瀕した国を再び安んじ、光を失った日月を再び明るくします。」と手紙を送りました。
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