乱世の勧誘……じゃない、奸雄とも称された曹操。
彼の元には数多くの名将たちが揃い、魏という大国を作り上げました。しかしその過程でもまた、数多くの名将たちが散っていきました。
今回はその中でも特別とも言える人物、郭嘉と曹操の関係について考えてみましょう。
曹操との出会い
さて郭嘉と曹操の出会いまではちょっと色々ありました。元々は戯志才という賢人が荀彧によって曹操に紹介され、曹操は彼を気に入って厚遇するものの、早世します。これを嘆いた曹操は荀彧に
「策略を十分に相談できる人物がいなくなった。彼のような人物は誰かいないか」と相談して、荀彧が次に推薦したのが郭嘉です。なおこの戯志才、実在しないだの何だの色々言われていますが、それはまた別のお話。
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空箱フラグ(※そんなことはなかった)
曹操と面会した郭嘉、二人は語り合い、意気投合します。郭嘉をとても気に入った曹操は喜び「わが大業を成就させるのはこの男である」とまで郭嘉を評価しました。
因みに荀彧が曹操の元に来た時は「わが子房(張良)である」と喜んだのがまだ記憶に新しい頃ですね!
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郭嘉の貢献
事実、郭嘉は曹操のために良く働きました。曹操の前半生である波乱万丈な日々を乗り越えたのも、ひとえに郭嘉の貢献あってのことでしょう。
袁紹、呂布との戦いでも郭嘉は多くの進言を曹操に行い、時に未来予知では?というような言葉さえ残しています。しかしそんな郭嘉の偉業は、烏丸討伐で終了しました。
郭嘉は帰還した時に病に倒れ、そのまま亡くなりました。38歳という若さで亡くなった郭嘉を、曹操は激しく痛み、惜しんだと言います。
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曹操と郭嘉の関係
さて曹操はどうしてここまで郭嘉を寵愛したかと言うと、まずはその出会いにあると思います。
曹操は荀彧に零したように、自分と十分に語り合える相手が欲しかった。そしてその唯一とも言える存在が、郭嘉だったのでしょう。事実、郭嘉も曹操も機知に富んだ人物であり、才能を秘めた人物であるものの、素行は宜しくないという評価をされているように、才覚だけでなく、その性根の部分までどこか同じ人物であったのかもしれません。
そこまで通じ合った人物と出会えたからこそ、曹操は郭嘉を大事に思っていたのではないかと思います。
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