ジャンヌ・ダルクは、1337年から1453年にかけてフランスとイギリスの間で起こった百年戦争で、フランス軍に従軍して戦った人物です。今回は、ジャンヌ・ダルクの活躍を、三国志で紹介していきます。
この記事の目次
そもそも百年戦争ってなに?
百年戦争は、フランスとイギリスで起きた王位継承問題が引き金となって、百年に渡り続けられた戦争です。その経緯は、フランス王のシャルル4世が後継者を決める前にこの世を去ったことにあります。その後継者として名乗りを上げたのが、シャルル4世のいとこにあたるフィリップ6世です。
これに異議を唱えたのが、イギリス王のエドワード3世です。エドワード3世は、シャルル4世の兄弟であるイザベルの子供であり、シャルル4世の甥っ子にあたります。言い分の違う両者に残された道は、戦争。イギリスのエドワード3世がフランスのフィリップ6世に挑戦状を叩きつけ、百年戦争が勃発しました。
三国志も約百年に渡る物語で、三国志に至るまでのキッカケである霊帝が崩御した後の劉弁、劉協による後継者問題がありますが、百年戦争の後継者問題もこれに相当します。しかし、百年戦争はこの後継者問題をさらにこじらせています。
フランスに舞い降りた救世主ジャンヌ・ダルク
百年戦争はイギリスの圧倒的有利な状況で戦況が進みます。その勢いは、フランス領土の大半を占領するほどで、フランスの敗戦は濃厚でした。そんなフランスに救世主が現れます。
その救世主こそが、「オルレアンの乙女」ことジャンヌ・ダルクです。ジャンヌ・ダルクは、12歳で神のお告げを受け、16歳でフランス軍に参戦します。ジャンヌ・ダルクの登場により息を吹き返したフランスは、イギリス軍の進軍を止めることに成功します。その勢いは留まることを知らず、イギリスに占領されたフランス領土を短期間で奪還しました。
これを三国志に置き換えてみると、黄巾の乱で混乱していた漢王朝に、劉備が義勇軍を率いて登場し、呂布や曹操などの強敵の攻撃をかわしながら、蜀を築いていく所にあたります。フランスと中国での違いはありますが、ジャンヌ・ダルクと劉備は国のために戦った、高い志をもつ人物です。
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ジャンヌ・ダルクを支えた二人の武将
三国志で劉備といえば、関羽と張飛の二人の武将が有名です。ジャンヌ・ダルクにも、ジャンヌ・ダルクを支えたジル・ド・レとラ・イールという二人の武将がいます。
ジル・ド・レは、武術に長け、教養もあり、情熱的で献身的な人物でした。ラ・イールは、粗暴で怒りっぽい性格の人物でした。二人の武将の活躍は目を見張るものがあり、ジャンヌ・ダルクを数々の勝利へと導いていきます。
ジル・ド・レは、武術と教養を兼ね備えた関羽であり、ラ・イールは武術に特化した張飛として見ることができます。
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歴史に残る一番勝負 オルレアンの戦い
ジャンヌ・ダルクの活躍を語る上で欠かすことのできない戦いは、オルレアンの戦いです。オルレアンの戦いは、イギリスの進撃を食い止めることに成功し、フランスが領土奪還へと息を吹き返すキッカケとなった戦いです。オルレアンの戦いでは、イギリス軍の猛攻にフランス軍は防戦を強いられていました。
敗戦続きのフランス軍の士気は低く、オルレアンでも敗戦が濃厚になっていました。そんなフランス軍に、一筋の光が差します。神のご加護を受けたジャンヌ・ダルクの登場です。ジャンヌ・ダルクは、フランス軍を率いて積極的な攻撃に出ます。その攻撃は、イギリス軍を次々と蹴散らしていきます。その戦いの中で、ジャンヌ・ダルクの左肩に矢が射られ負傷します。
ジャンヌ・ダルクの負傷は、フランス軍に動揺をもたらします。しかし、次の日にはその傷も癒え、多くの兵士が心配する中でジャンヌ・ダルクは戦いに参加します。この出来事にフランス軍兵士は、ジャンヌ・ダルクには神のご加護があることを確信します。神が味方しているとあれば、フランス軍も強気になります。
これまでの敗戦を覆すような怒涛の攻撃により、フランス軍はイギリス軍を蹴散らすことに成功します。ジャンヌ・ダルクがオルレアンに登場してから、9日目のことでした。
オルレアンの戦いは、三国志では赤壁の戦いに相当します。曹操軍の追撃から逃げる劉備軍が孫権軍と協力して、赤壁で曹操軍を破った戦いです。劉備・孫権連合軍がフランスで、曹操軍がイギリスとしてみると、追い詰められた劉備・孫権軍が絶対的有利な曹操軍に完全勝利するという構図になっています。
ジャンヌ・ダルクの最後
オルレアンの戦い以降もジャンヌ・ダルクの快進撃は続きます。そんなジャンヌ・ダルクの活躍も、ブルゴーニュ公国軍によって止められます。ブルコーニュ公国軍は、イギリスと手を組んでいる国です。
あろうことかジャンヌ・ダルクは、このブルコーニュ公国軍に捕まってしまったのです。その後、ジャンヌ・ダルクはイギリスへ引き渡されて、異端審問と呼ばれる裁判にかけられます。敵国での裁判は圧倒的に不利。もちろん、正当性など皆無です。また、ジャンヌ・ダルクによってフランス王として即位したシャルル7世は、自分より目立つジャンヌ・ダルクを疎ましく思い、身代金の支払いをしません。結果、孤立無援となったジャンヌ・ダルクは、キリスト教の異端者として火刑に処されてこの世を去りました。
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ジャンヌ・ダルクが歴史に与えた影響
ジャンヌ・ダルクの活躍は、風前の灯火であったフランスを蘇らせ、フランス領土の奪還に成功、イギリスをフランス領土から追い出し、百年戦争を終結に導きます。また、この時イギリスとフランスで定めた国境が、現在のイギリスとフランスの国境となりました。
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三国志ライター黒太子の独り言
今回は、三国志から離れて百年戦争に目を向けてみました。しかし、三国志と共通点も多く、思わずニヤリする場面がいくつもあります。また、今回はジャンヌ・ダルクを劉備としてお話をしていきましたが、この二人をリンクさせた最大の理由は、どちらも戦上手でありながら最後には無念の死を迎えることが似ていたからです。
ジャンヌ・ダルクはフランスを奪還するまで勝ち続けます。劉備も敗戦が目立ちますが生涯の戦績は28戦16勝12敗と勝ち越しています。また、劉備の負け戦も完敗ではなく、被害を抑えた最小限での敗北であり、これも戦上手だからこそ出来たことです。三国志以外の歴史に触れて、三国志を見直してみるとこれまでとは違った視点で楽しむことができます。
その一つとして今回は百年戦争を取り扱いました。この様に、違った視点から歴史を楽しむのも、噛めば噛むほど出てくる歴史の味ではないでしょうか。