その生涯において、失敗をしなかった者などいないでしょう。しかし王には、国を率いる者にはそれが許されることはありません。ですが誰でも失敗を犯すと言うならば、何よりもその失敗を素早くリカバリーすることが求められます。
後々にまで尾を引いてしまう事件、呂壱事件。
孫権が晩年にやらかした事件の一つでもある、この事件の主犯である呂壱という人物を今回は見ていきましょう。
この記事の目次
呂壱(呂壹)についての伝はあるのか?
さて、三国志の登場人物たちは「伝」という形で記録が残されています。しかしこれは三国志に登場する人物たちすべての記録ではありません、中には伝が立てられていない人物もいます。
呂壱も実はこの一人であり、呂壱事件という後まで値を引く事件を起こした人物でありながら、その記録はやや曖昧な部分もあります。ですが、呂壱事件については他の人物の伝に綴られており、これらの記録から呂壱という人物を断片的に知ることは可能です。
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呂壱(呂壹)という人物
呂壱は酷使でした。この酷使とは元々「法律を厳守する役人」という意味ですが、時代の変化に伴い「冤罪を捏造するもの」「拷問を行う役人」などの意味も込められてきました。実際に呂壱は小さな罪でも必ずその一件を告発し、権力者であってもその追及を行ったと言います。
ここだけ見れば孫呉に良くある苛烈な人物、寧ろ相手が高位の人物でも恐れを知らない好漢とも映るかもしれません。しかし、ここで終わらないから呂壱事件が起こったのです。
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呂壱(呂壹)、やり過ぎる
小さな罪でも逃さないその性格は、段々と悪化していきました。些細な事件でも大事にし、偽の事件でも取り上げてしまったことで呉の重臣たちはその経歴を汚され、果てには無実の者であっても罪に陥れるようになっていきました。
その一方で専売で自分のみ利益を得、私腹を肥やしていくなど、呂壱の行動はどんどんと目に余るようになっていったのです。
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呂壱(呂壹)の役職
呂壱自身の経歴はそこまで詳しく分かってはいませんが、呉の中書省に席を置いていたようです。この役職は皇帝と臣下の取次ぎを行う役職であり、上奏文なども取り扱っています。そして上奏文とは皇帝に対して意見を書いた手紙のようなもの。
前述したように、呂壱は些細な罪でも、冤罪でもそれを取り入れる、その一方で私腹は肥やす、この一件は何度も皇帝・孫権に上奏されましたが、そもそもその上奏を取り次ぐべきところに呂壱がいるのですから上手くいきません。何よりも呂壱自身を孫権が気に入っているので、呂壱の振る舞いはますます横暴になります。
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名将ら、動く
ついには丞相であった顧雍までもが謹慎処分をさせられることになりました。ここで動いたのが陸遜、潘シュンら。潘シュンは自身が罪に問われても呂壱を取り除こうと決意するも、これを察知した呂壱に逃亡されました。
そうして呂壱に対する上奏を陸遜と潘シュンが行い、その後押しを歩シツが行ったことにより孫権の目も覚め、やっと呂壱は罪に問われることになります。
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