戦いを主題とする作品である「三国志」には、数え切れないほど多くの英雄たちが登場しては死んでいきます。
そこで、今回は「三国志」の中でも特に「主役級」といえる6人に的を絞り、その死を死んだ理由ごとに分けて考察していきたいと思います。
ちなみに、「主役級の6人」は、筆者の独断と偏見で、劉備・曹操・孫権・諸葛亮・袁紹・呂布の10人としました。
また、「死んだ理由」は基本的には「正史三国志」準拠で考察していきます。どうぞご容赦ください。
畳の上で死んだ英雄たちその1:曹操
まずは、「畳の上で」死んだ英雄たちについて見ていきます。三国志の時代に当然畳はないので、ここでの「畳の上で死ぬ」は、戦場での死や暗殺・処刑という死に方以外の死に方とします。
以上の6人のうち、「畳の上で死ぬ」ことができたのは劉備・曹操・孫権・袁紹の4人です。しかし、それぞれの死の直前の状況を見ると、満足して死ねたのは曹操だけではないでしょうか。
曹操は一代でかつての後漢の大半の領土を一手に収める大勢力を築き上げ、後漢の献帝を擁して丞相や魏王となるなど、位人臣を極めた後に最期を迎えました。その生きざまはまさに一世の英雄というにふさわしいものでしょう。
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畳の上で死んだ英雄たちその2:劉備・孫権・袁紹
しかし、劉備はと言えば、生涯を共にすることを誓った義弟の関羽・張飛を失い、関羽の仇討ちのために呉を攻めるものの夷陵の戦いで敗北し、満身創痍となったあげく、病に倒れて急死してしまいます。
一代で蓆売りから皇帝にまでなった男の最期としては、いささか悲しいものがあります。
一方、孫権はどうでしょうか。孫権は劉備や曹操よりも若かったため、二人よりもはるか後の252年まで生き続けました。しかし、晩年の孫権は耄碌したと言わざるを得ないほど、かつての英雄としての姿を失ってしまいます。
呉の後継者である孫登を亡くした孫権は、孫登の弟の孫和を後継者としますが、孫和の弟の孫覇を寵愛し、後継者争いの火種を作ってしまいます。
最終的には、孫和は廃嫡され、孫覇は自害に追い込まれてしまい、一連の騒動はいたずらに呉の朝廷を乱すだけに終わってしまいました。
さらに、晩年の孫権は呉を長年支えた陸遜をも疑い、これに憤慨した陸遜は憤死してしまいます。孫権は「畳の上で死ぬ」ことができたものの、これでは「晩節を汚した」と言われても仕方がありませんね。
袁紹の最期も孫権と同じく、あまりきれいな晩節とは言えません。袁紹は一代で河北四州を制圧し、後漢末の群雄の筆頭ともいえる存在でしたが、官渡の戦いで曹操に大敗を喫してしまいます。
官渡の戦いで敗れた時点で袁紹は未だ河北を支配しており、敗戦から持ち直すことができれば、再び曹操に決戦を挑むこともできました。しかし、曹操に敗れて失意に沈む袁紹は病に倒れ、202年(建安7年)に病死してしまいました。
袁紹には3人の息子がいましたが、後継者を決めぬままに死んでしまいます。序列でいえば長男の袁譚が跡を継ぐべきでしたが、弟の袁尚は袁紹に寵愛されており、両者は激しい後継者争いをはじめます。
そして、これにつけ込んだ曹操が大挙して河北に攻め込み、ついには袁紹の子である袁譚・袁煕・袁尚の三兄弟はみな曹操に滅ぼされてしまいました。このように、袁紹は「畳の上で死ぬ」ことができたものの、死後に禍根を残し、袁家没落のきっかけを作ってしまいました。
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戦場で死んだ英雄たち:諸葛亮と呂布
一方、諸葛亮と呂布は戦場でその命を散らしました。彼らの死に様は有名ですが、一応紹介していきましょう。
諸葛亮の最期は、『三国志演義』の最後を飾る場面としてあまりにも有名ですので、知っている人も多いのではないでしょうか。
諸葛亮は、劉備亡きあとの蜀の丞相として蜀を支え続け、魏に対する北伐を繰り返します。しかし、兵力に勝る魏の司馬懿に持久戦に持ち込まれ、北伐は実を結ぶことなく、諸葛亮は北伐の最中に亡くなってしまいます。
諸葛亮の死後、魏の司馬懿はここぞとばかりに攻勢に出ますが、自分の死後に司馬懿が後世に出ることを読んでいた諸葛亮は、自分が生きているように見せかける策を打っており、これにかかった司馬懿は撤退を余儀なくされたという話(「死せる孔明、生ける仲達を走らす」)は有名ですね。
その後、丞相であった諸葛亮の葬儀は大々的に行われますが、人気が高かった諸葛亮の死を人々は大いに嘆き悲しみ、蜀の村々では人々が自発的に諸葛亮を祀ったとも言われています。漢王朝再興という夢は果たせなかったものの、諸葛亮の死に様はなんとも美しいものではないでしょうか。
呂布の死に様は諸葛亮の正反対を行くものです。圧倒的な武力を誇りながら、2度にわたって養父を暗殺し、自分を受け入れてくれた劉備を裏切って徐州を奪うなど、悪逆非道の限りを尽くした呂布ですが、その最期は悲惨なものでした。
劉備から徐州を奪った呂布ですが、劉備と手を組んだ曹操と敵対し、呂布は袁術と同盟を結んで対抗しますが、最終的には曹操に敗北を重ね、下邳に追いつめられます。難攻不落の下邳城に立て籠もってしぶとく抵抗する呂布でしたが、最後は部下に裏切られて捕らえられます。
縛られて曹操の前に連れていかれた呂布は往生際の悪いことに、「君(曹操)と俺が組めば天下統一は容易い」と命乞いをしますが、当然ながら受け入れられず、最期は縛り首にされてしまいました。裏切りと悪行の限りを尽くした呂布にふさわしい最期と言えますね。
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【北伐の真実に迫る】
三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか。今回は英雄たちの「死に方」を中心に考察していきました。「畳の上で死ぬ」ことができた者たちにせよ、「戦場で死ぬ」こととなった者たちにせよ、満ち足りた最期を遂げることができた者はほとんどいませんでした。
こうしたところからも、戦乱の時代である「三国志」の時代の厳しさがひしひしと感じ取れますね。
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