劉備の恩人と言えば、盧植や水鏡先生という人が多いと思います。
しかし劉備が傭兵隊長として世に出るきっかけと造った人物としてはこの鄒靖も忘れてはいけない人物でしょう。彼がいなければ劉備のデビュー戦は違ったモノになったかも知れないからです。
鄒靖はどんな人ザックリ!
では最初に鄒靖はどんな人かについてザックリと解説しましょう。
一 | 鄒靖は、200名の兵士を率いる校尉。
黄巾の乱時に義勇兵を率いた劉備を配下に加え各地を転戦。 討伐に功績があった劉備を安熹県尉に推挙したと見られる |
二 | 劉備と別れた後、韓遂・辺章の乱で皇甫嵩配下の北軍中侯として従軍。
増援として烏桓兵ではなく鮮卑兵を提唱し、意見は朝廷まで上がるが 応劭が反対し隴西の羌胡を援軍にすると決定。 ここでやってきたのが羌胡に顔が広い復権した董卓である。 |
三 | 西暦188年の張純の乱に劉虞の配下として従軍。胡族に包囲されるが
公孫瓚に救出された。同じく公孫瓚の配下になっていた劉備と再会できたかは不明。 |
四 | 三国志演義では義勇兵募集の高札を提案。桃園の誓いは鄒靖なしには
成立しない重要な役どころとなる。 |
以上がザックリした鄒靖の生涯です。ここからは、もう少し詳しく鄒靖について解説していこうと思います。
関連記事:【徹底追及】劉備はどうしてあんないい加減な性格なのか?
関連記事:曹操と劉備はどうしてライバル扱いなの?【三国志の素朴な疑問】
劉備のデビュー戦
先主伝によると鄒靖は、200名を率いる部隊長である校尉で黄巾の乱時に義勇兵を挙げた劉備を配下に組み込んで黄巾賊と戦ったとあります。
この戦いで劉備は手柄を立て安熹県尉に昇進しましたので、趨靖の口利きもあったのではないかと考えてしまいます。県尉なんて田舎の警察署長に過ぎないノンキャリアではありますが、祖父が県令止まりの没落豪族劉備にしてみれば、24歳での県尉昇進は大きな出世でしょう。
だからこそ、しばらくしてリストラされた時は烈火のごとく怒ったのでしょうね。
関連記事:督郵はつらいヨ!劉備ばかりか満寵にもシバかれた下っ端役人
その後の鄒靖
劉備と別れて後の鄒靖の消息は後漢書の応劭伝に登場します。中平二年(185年)皇甫嵩が韓遂と辺章の乱を討伐すべく烏桓兵3000の増援を要請した時の事、北軍中侯だった鄒靖は「烏桓兵はザコなので鮮卑兵を採用すべきです」と意見しています。
鄒靖の意見は朝廷に挙げられ、大将軍掾の韓卓は「烏桓の兵は少なく、鮮卑は代々仇敵なので烏桓の兵を挑発すると鮮卑は烏桓の家を襲うでしょう。結局、烏桓兵は戦いどころではなくなり故郷に逃げ戻るに違いありません。鄒靖殿は辺境に住んでいてその虚実を知るので彼に鮮卑騎兵5000を募らせれば必ずや敵を破れます」と意見します。
しかし、同僚の応劭が鮮卑はそもそも信用できないので、隴西の羌胡で忠義心が高いものを選んであてましょうと反論。結局、朝廷は応劭の意見を採用し、やってきたのがあの董卓だったのです。
関連記事:後漢書からわかる韓遂の誕生秘話!反乱プロデューサー韓遂はこうして生まれた
公孫瓚陣営で劉備と再会できたか?
その後の鄒靖は中平5年(188年)張純の乱で破虜校尉として従軍し胡族を追撃するものの、途中で包囲されてしまいます。しかし、ここを公孫瓚に救助されたと太平御覧には記されています。
その後の鄒靖の足取りは不明ですが、張純の乱鎮圧に参加しているという事は、劉虞の配下として戦った可能性が濃厚で、公孫瓚の部下ではないかも知れません。
だとすると、公孫瓚と劉虞が決裂した時に劉虞サイドについて公孫瓚とは敵対した可能性もあります。
一方劉備は、督郵をしばいて辞職した後に、今度は何進大将軍の都尉毌丘毅が丹陽郡まで賊を征伐に来たのに従って従事となり、下邳の戦いで手柄を立て下密の丞となり、そこを辞めて、今度は、高唐県の尉に転身して昇進し県令となりました。
しかし、その後黄巾賊に城を攻められて得意のとんずらを決め込み、切羽詰まって公孫瓚の客将に落ち着きます。それが191年の事で袁術に対する対応を巡り、公孫瓚と劉虞の仲が悪くなり始めた時期でした。
もしかしたら劉備はギリギリで鄒靖と再会できたのかも知れません。劉備としては自分を県尉に推薦してくれた人なので一方ならぬ恩義は感じていたと思いますが、なんの記録もないので想像の域を出ませんね。
三国志演義ではさらに重要
三国志演義での鄒靖は幽州太守の劉焉に対して、黄巾賊は多く正規軍は少ないので、義勇兵を募って備えましょうと提言し、各地に義勇兵募集の高札を立てさせています。
演義の劉備は、高札を見て溜息をつき、それを見とがめた張飛が「おうおう!大の男が何を溜息をついているんだ?」と因縁をつけて、そこから居酒屋で飲んで漢王朝の再興を目指して意気投合という流れなので、もし高札が無ければ桃園の誓いもなかったかも知れない重要な人物です。
劉備と鄒靖は意気投合して幽州の黄巾賊を退治しますが、劉焉が今度は青州太守の龔景の援軍に行けと厄介払いをし、龔景を救った後で劉備は盧植の下に赴いて鄒靖と別れていく筋書きになっています。
そして、やはり最後どうなったのか?分からずじまいなのも、正史と共通しています。
関連記事:三国志演義の主人公は劉備!いったいなぜ?
三国志ライターkawausoの独り言
今回は劉備の隠れた恩人である鄒靖を取り上げてみました。
校尉という、それほど身分が高くない人物ですが、辺境に住んでいて異民族の動静に詳しく、その意見は皇甫嵩を通して朝廷にまで上げられ議論の的になるなど軍人としてはなかなか有能な人物である印象です。
また劉備にしても公孫瓚の客将時代には烏桓突騎を率いているなど、異民族と縁がある様子なので、鄒靖とは馬があったのかなと推測してしまいます。鄒靖が劉備の将来性を買って、安熹県尉に推挙したと考えると、将来の皇帝を発掘した人物として感慨深いですね。
参考文献:後漢書 太平御覧
関連記事:劉備の黒歴史がまた発見される!?三国志の主人公の消された過去
関連記事:晩年の劉備は嘆くこともできなかった?現代にも通じる嘆きと髀肉の嘆