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夏侯惇ってどんな人?正史と演義では人柄が違う?

2022年3月25日


 

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曹操と夏侯惇

 

夏侯惇(かこうとん)と言えば、曹操(そうそう)を挙兵時から支えた勇猛な武将として知られていますね。その武勇は有名ですが、夏侯惇自身はどのような人柄だったのでしょうか?

 

三国志演義_書類

 

正史「三国志」に記された夏侯惇と、小説である「三国志演義(さんごくしえんぎ)」で描写された夏侯惇の人柄には若干の違いがあります。今回の記事ではそんな夏侯惇の人柄について正史と小説を比べながら探ってみることにします。まずは夏侯惇の経歴から紹介しましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹操の親せきで、その挙兵に従う夏侯惇

曹操と夏侯惇

 

夏侯惇は曹操の「いとこ」と言われています。曹操の父と、夏侯惇の父が兄弟なのだそうです。夏侯惇は師について学問に励んでいましたが、その師を侮辱され怒り、侮辱した相手を殺してしまうほどの気性の持ち主でした。曹操が挙兵するとそれに従い、各地を転戦しました。

 

目玉を食べる夏侯惇

 

有名なのは呂布(りょふ)との戦いの際に矢にあたり、左目を失ってしまったことです。以後、彼は隻眼(せきがん)として過ごすのですが、周囲には親せきの「夏侯淵(かこうえん)」)と区別するため「盲夏侯(もうかこう)」(盲は目が見えない意味)と呼ばれていました。

 

鏡を見ると怒って割っていた夏侯惇

 

夏侯惇はこれをとても嫌がり、鏡を見るたびに叩き割っていたそうです。車の同乗を許されるなど、曹操にとても優遇された夏侯惇ですが、曹操がなくなって数か月後に後を追うように亡くなります。曹操の跡継ぎ「曹丕(そうひ)」に軍事の最高責任者「大将軍」に任命された直後のことでした。

 

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呂布対項羽

 

 

 

いつまでも学ぶことを忘れない夏侯惇

夏侯惇

 

夏侯惇は若いころに師を侮辱した者を殺すほどの人物ですが、学問については忘れていませんでした。彼は例え軍の遠征中でも陣中に師を迎えて勉学に励んだといいます。当時の学問は「兵法」なども含まれたと考えられますので、学問はきっと戦場でも役に立ったことでしょう。

 

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夏侯惇は金にこだわらない

夏侯惇

 

夏侯惇は魏でもかなり高位でしたから、きっとかなりの財産を築くことができたでしょう。夏侯惇はそのような金や財産には興味を示さず、余計なお金は人々に施し、財産を増やすようなことはありませんでした。

 

夏侯楙

 

しかし、夏侯惇の息子「夏侯楙(かこうぼう)」は反対に金儲けが好きで、反感を買っていたようです。

 

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三国志とお金の話

 

 

夏侯惇は交友関係が広い!

夏侯惇に見出され曹操に仕えた韓浩

 

夏侯惇はその人柄の良さから、多くの人を惹きつけました。その人柄は人材発掘にも生かされ、曹操のボディーガードを務めた「典韋(てんい)」、屯田を提唱した「韓浩(かんこう)」など優れた人材を登用しています。

 

交友関係も広く、恩賞を拒否して隠遁していた「田疇(でんちゅう)」という気難しそうな人物とも友人関係だったそうです。曹操は田疇になんとしても恩賞を与えたく、友人である夏侯惇に説得を任せました。ただ、田疇の決意は固く、夏侯惇は説得には失敗しています。

 

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よかミカンのブラック三国志入門

 

 

民のことも忘れない

実は文官タイプだった夏侯惇

 

夏侯惇は戦場だけでなく、内政でも力を発揮しました。領地に大規模な灌漑工事(農業用水を確保するための工事)を行い、その時には自ら土を運び、将兵に田植えの手伝いをさせたり、民にも大いに喜ばれたといいます。

 

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みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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