劉備の跡を継いだ劉禅は、放っておくと何をしでかすか分からない人物だったようです。そんな劉禅を暴走しないように手綱を握り、お目付け役を務めていたのが「董允」という人物です。
戦場で活躍したような人ではありませんが、どのような性格だったのでしょうか?
今回の記事ではそんな董允の生涯とその性格について探ってみましょう。
劉禅の側近になる
董允は荊州の出身ですが、父の董和が益州で劉璋に仕えるのに従い、移住をしています。
父の董和は益州を制した劉備にも使え、諸葛亮とともに蜀の内政を担いました。とても法に厳しい人物で、地域の有力者には嫌われましたが、領民には慕われていたそうです。董允は劉禅が皇太子になると、その側近として彼の傍で働くことになります。
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責任感がある!劉禅に度々忠告する
諸葛亮は北伐を開始するにあたり、宮中を留守にしている間の劉禅を心配していました。そこで劉禅に国の在り方を伝えた「出師表」の中で、費禕、郭攸之、そして董允の名をあげ、「国政のすべては彼らに相談するように。」と言ったのです。
ただ、費禕は北伐に従軍することになり、郭攸之は優しいだけであまり役に立たない人物だったらしく、劉禅のお目付け役は董允がもっぱら果たすことになってしまうのです。このことから董允はとても責任感のある性格だと想像できますね。
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【北伐の真実に迫る】
董允の忠告、国を守る
劉禅は諸葛亮が案じた通り、好き勝手なことを言い出しました。まずは美人を国中から集め、自分の後宮(皇帝の妃や妾が住むところ)を充実させたいと考えていました。
それを察知した董允は劉禅に「古代から天子の妃は20人くらいと決まっております。今は十分にそろっているではありませんか。増やす必要はありません。」と、劉禅の提案をはねのけ、劉禅は董允を煙たがった、と言います。
この董允の言葉から推測するにすでに劉禅は女性を20人程度は集めていた、ということになり、それはそれで恐ろしいことです。
また、劉禅は宦官の「黄皓」を信頼していましたが、董允は彼を警戒し、「黄皓を遠ざけるように。」と厳しく劉禅に伝え、黄皓本人にもたびたび苦言を呈しました。そのため、董允がいる間、黄皓は自分勝手なことはできず、宮中は安定していました。
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でもちょっと気弱なところもある
君主にも堂々と意見する董允でしたが、実は気弱な一面が垣間見えるエピソードもあります。それは蜀の名士「許靖」の子の葬儀に出かけたときのことです。
董允は費禕と一緒に車に乗って葬儀に出かけました。いざ会場についてみると、諸葛亮など蜀の名士が多く集まっていましたが、車で来た者は少なかったのです。それを知った董允は焦り、動揺した様子でしたが、同乗した費禕は平然としていました。
このエピソードを知った董允の父、董和は「私はお前(董允)と費禕、どちらが優秀なのか分からなかったが、今回の出来事で良くわかった。」と言っています。
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人を立てることも忘れない
ある日、董允は費禕とともに宴会に行く予定で、馬車の準備をしていました。
そんな時に「董恢」という人物が董允と語らおうと訪ねてきました。それを見て董允は外出をやめようとしましたが、董恢は身分が低かったので遠慮して帰ろうとしました。
董允は帰るのを許さず、「わざわざ来た人を無下にするなんてできない。」と宴会に行くのをやめ、費禕も馬車の準備をやめたのです。このように董允は相手の身分にかかわらず、敬意を示すのを忘れない人物でもあったのです。
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■古代中国の暮らしぶりがよくわかる■
董允の死後
蜀の宮中を抑えていた董允でしたが、246年に亡くなってしまいます。これで劉禅を抑えるものはいなくなり、好き勝手に過ごすようになってしまいました。
宦官の黄皓も思うがままふるまうようになり、政治が混乱しました。軍事の責任者は姜維でしたが、彼も黄皓と対立し、成都には戻れなくなってしまいます。
こうして蜀は連年の姜維の北伐の国力の低下、政治の混乱も重なって滅亡することになってしまうのです。蜀の人々は「董允が生きていれば」と董允の死を悔やんだといいます。
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三国志ライターみうらの独り言
董允は実直な性格ではありましたが、実は気弱な面もある実に人間らしい人物ですね。彼の死が蜀の滅亡に直結してしまい、董允も墓下でさぞ歯がゆかったことでしょう。
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