三国志ファンにはおなじみの話ですが、荊州をめぐる激闘の末、関羽は呂蒙率いる呉軍に敗れ、関羽自身も処刑されてしまいます。
それほど三国志に詳しくない方でも、『三国志演義』の準主役ともいえる関羽のことはご存知でしょうし、この関羽が殺されてから蜀の運命には暗雲たちこめ、劉備や張飛たちの運命も続々と死に向かっていくことは、耳にしたことがあるかもしれません。
それほどの歴史の分岐点となった「関羽の敗北」。
ですがこの際、呉の君主である孫権は、「関羽ほどの英雄を殺すのは惜しい。どうだ、私のもとで働かないか?」と声をかけているのです。
義理に厚い関羽は、当然この申し出を突っぱねて処刑されるわけですが、はたして、このとき関羽が呉への降伏を受け入れていたら、いったいどうなっていたのでしょうか?
まず「関羽があそこで死ななかったら」という一点だけで、実にたくさんの人が「死なずに済む」ことになるのです。もっとも、それとは逆に、「関羽があそこで死ななかったら、たぶん死ぬことになっていた人」も何人かいるのですが、それでも「関羽が死ななかったら救われていた命」のほうが圧倒的に多いのです。
もしかしたら、数億人単位の命にまで影響があったかもしれません!
※なお、本稿の考察は『三国志演義』の展開に則ったイフ展開となります為、『正史』を典拠とすると解釈が変わってくるであろうことを、あらかじめ申し添えておきます。
この記事の目次
関羽が呉に降伏したら生き残った人たち:その1
まずは関羽が呉に投降していたら助かっていた人たちの代表格を挙げてみましょう。わかりやすいのは、蜀の諸将たちです。というのも、おそらく関羽が呉に投降するとなったら、「いつかは劉備様のところに返してくれ」という条件付での降伏となったことでしょう(この条件を容れない限り、孫権が関羽を説得して降伏させることは不可能なはず!)。
このように関羽が名分を立ててくれた上で降伏すれば、周倉や王甫を含め、関羽の死を聞いてその後を追った多くの蜀将が、関羽とともに投降していたことでしょう。
そして投降した関羽軍は、「劉備軍とは戦わない。曹操軍と戦う時だけ出動する」という条件も孫権にのませているはずですので、劉備や張飛も「いつか関羽が帰ってきてくれる!それまでの辛抱じゃ!」と希望をつなぎ、彼らの寿命も延びていたかもしれません。
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関羽が呉に降伏したら死んでいた人たち:その1
いっぽう、関羽が呉に投降するというイフ設定では、むしろ死ぬことになる人たちは誰でしょう?
いうまでもなく、魏の諸将たちです。というのも、降伏した関羽たちは、「劉備様には矛を向けないが、いつか劉備様のもとに返してくれるという好条件を容れてくれた孫権には恩返しをしたい」と考えるはず。
曹操軍と孫権軍の戦いが起こった時は、むしろ鬼神のごとき働きを見せ、曹操軍に突撃したことでしょう。張遼や徐晃のような、この時代の曹操軍の勇将が何人か、呉に加わった関羽軍の前に命を落とし、曹操陣営の人材は大打撃を受けていたかもしれません!
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関羽が呉に降伏したら死んでいた人たち:その2
また、関羽が生き残っていたら死ぬことになった人たちの名簿には、以下の名前も加えねばならないでしょう。
傅士仁
です。
糜芳と傅士仁は、荊州を巡る戦いにて、「関羽はもう終わりだ」とサッサと呉軍に投降することで関羽軍敗退の潮目を作った人物。関羽が呉に投降すれば、この二人の立場はめちゃくちゃ悪くなっていたことでしょう。
関羽自身が手を下さなくとも、どさくさに紛れて周倉あたりに殺されていたかもしれません。もっとも、糜芳と傅士仁はけっきょく夷陵の戦い前後の流れの中で、関羽の息子の関興に殺されますので、この二人は関羽が生きていても死んでいても、もはや命運尽きていた人たちと言えなくもないですが。
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まとめ:関羽が呉に降伏したら生き残った数億単位の人たち!
しかし、ここまで名前を挙げた武将たちの運命など、実は小さい問題にすぎません。関羽が死んだ後、実は曹操の帷幕にて、以下のようなことが起きるのです。
・曹操の宮殿に関羽の霊が出る
・「不吉だから、宮殿を建て替えよう」と曹操が言い出す
・新宮殿のために「切ってはいけない梨の木」を切ってしまった曹操は、祟りで病に伏せる
・その病を治すために名医華佗を召喚する
・華佗のことが気に入らなかった曹操は華佗を殺してしまう
・華佗は死の直前に、自らの医術のすべてを後世に遺すべく著した『青嚢書』という書物を獄吏に託す
・ところがその『青嚢書』は獄吏の奥さんのせいで燃やされてしまう
おわかりでしょうか?
関羽の死は、三国随一の名医、華佗の死とも因縁がつながっているのです。もし関羽が呉に投降していたら、華佗が曹操のところに召喚されることもなく、華佗はもう少し長生きをして、おそらく『青嚢書』を完成させていた。
そしてその『青嚢書』はズサンな獄吏夫婦の手になどは渡らずに、しかるべきルートで発表されていたことでしょう。三国志物語のあれであれだけの大活躍をした華佗の秘伝の医術が書物にまとめられ、無事に後世に伝わっていたら?
おそらく、医学の進歩は数世紀分早くなり、中国でたくさんの人の病気を治すことに役立ったのみならず、『青嚢書』はきっとギリシャ語やラテン語にも翻訳されて、世界中に広まる名著となっていたことでしょう。関羽が生きていたら、そのインパクトは三国志の展開にとどまらず、世界史全体を変えるだけのインパクトがあったのです。
しかもそれが、軍事や政治ではなく、医学史のほうに影響が出ていたと想像すると、あそこで関羽が生きていたら助かった命は「数億人単位」にまで昇ったのではないでしょうか。直接に華佗を殺したのは曹操とはいえ、なんという惜しい話!
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三国志ライター YASHIROの独り言
逆に見ると、関羽一人が死んだことで、どれだけその後の歴史の展開に深刻な影響があったことか!
やはり、関羽、おそるべし!
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