平安の昔、さる左大臣の家に内気な男の子と活発な女の子がいました。左大臣は、男の子が活発で女の子が内気であったならと思いまして「そうだ、二人を取り替えて育てよう」と思い立ちます。
そんな昔話にヒントを受けた、三国志とりかへばや物語、今回のテーマ人物は朱拠です。後で大雑把ながら触れていきますが、朱拠のその生き様は何とも不憫と言うか、呉の「これから」を伺わせることとなっています。
そんな朱拠のとりかへばやですが……今回は敢えての、敢えてのとりかへばやを考えてみました。では朱拠のもしものとりかへばや物語、始めてみましょうか。
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朱拠は孫権のお気に入りとして出世
朱拠は若い頃から風采があり、論弁の才能に長けているという評価を受けていました。そんな朱拠を見出したのは、当時は既にいい年になっており、年齢を重ねてきた人物特有の「あの頃は良かったなぁ」と過去を懐かしんでいた孫権。
朱拠を呂蒙の後を継ぐ人物!として大抜擢。その上自分の娘も嫁がせたのでかなりの期待が込められていたと言っても良いでしょう。
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二宮の変に講義し縄で体を縛り顔に泥を塗る
順調にその才能を発揮し、出世していった朱拠は249年に丞相代行の身分となります。しかしこの頃の呉は後に二宮の変と呼ばれる後継者問題の真っただ中。因みに朱拠は皇太子であった孫和派です。
翌年、孫権は皇太子の孫和を廃太子後に幽閉。魯王の孫覇は自害。新しく皇太子になったのは可愛がっていた末っ子の孫亮。
これを聞いた朱拠は自分の顔に泥を塗り、体を縄で縛らせるという身を持っての抗議をします。
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孫権が激怒!棒でブッ叩かれ左遷の上殺害
ですが朱拠の思いは伝わることなく、この抗議は孫権から怒りを買っただけでした。孫権は朱拠を棒たたきの刑に処し、その上で左遷してしまったのです。
そしてその際に動いたのが孫弘。既に病床に付いていた孫権に朱拠の悪口を吹き込み、ついにはその詔を偽造。朱拠は自害を命じられ、命を落とすこととなったのです。正に悲劇と言えましょう。
さてそんな朱拠のとりかへばや、今回は一風変わったとりかへばやを考えてみました。
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case1:すぐキレる先輩。朱桓とトレード
まずは大一手、朱拠と同族の朱桓さんにおいで頂きました!
朱桓と言えば「敵将が朱桓」というだけで恐れられた呉の猛将にして名将。民に大変慕われた一方で、プライドが高すぎて他人からの指示には従わないめちゃくちゃ頑固なとこがあります。
一番驚くエピソードとして「言い争いから別の他人に飛び火してその他人を殺そうと乗り込んだけど逃げられてそこにいた副官二人を切り殺した」という話がある……そしてこれを結局孫権が許してしまったとか言う驚きの落ち。
こんな朱桓と朱拠を入れ替えたとなると、間違いなく二宮の変で大暴れ(比喩ではない)してくれることでしょう。その後の抗議も朱拠がどれほど大人しかったか分かるような話になるのではないでしょうか?
少なくとも朱拠のような哀しい最期にはならないと思います。
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case2:孫権の学友朱然とトレード
朱然と言えば孫権の学友にして、孫堅の股肱之臣・朱治の養子、そして朱治の養子になる暁には孫策が仲立ちしているという孫家三代に関わり合いの深い武将。数々の戦いで大活躍をし、一時は呂蒙の後継者という話もあった人物です。
孫権にとっては朱然は学友という古い付き合いがあるだけでなく、孫呉を古くから知る掛け替えのない存在だったことでしょう。その朱然と朱治をとりかへばやしても、朱然はしっかりと今後の孫家を支えてくれると思います。
何せ呂蒙から「胆守余りある」と評された朱然、二宮の変という孫呉の今後に大打撃を与える一件をそのままにしてはおかないのでは……寿命の関係さえどうにかなればもうちょっと何らかの発言もしてくれたのでは……?
ちょくちょく活躍の場を削られる(三国志演義)朱然ですが、事ここに至っては既に朱然しかいない雰囲気の中で、呉のその後をどうにか……どうにしかしてくれ!(願望)
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