高幹は字を元才と言い、兗州陳留郡圉県の人です。高幹の父である高躬は、袁紹の姉を娶っているので高幹から見て袁紹は叔父にあたります。
そういう経緯もあり、高幹は袁紹と行動を共にしていますが、能力的には残念な人が多い袁家では珍しく有能で袁紹没後も曹操に叛き、てこずらせました。
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三国志では袁紹配下で息子同様の扱いされた高幹
高幹の活躍は初平2年(191年)に袁紹の命令で、荀諶、張導、郭図らと共に冀州牧、韓馥を脅して冀州を譲らせたところからです。
袁紹は、有能な甥を可愛がり建安4年(199年)頃に袁紹から幷州刺史に任命されました。これが、どれだけ凄いかというと幽州の統治を任された袁煕、青州を任された袁譚と同等の扱いを受けていたという事であり、袁紹は高幹を息子のように思っていたのでしょう。
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関中軍閥、馬騰と韓遂を寝返らせる
建安7年(202年)に袁紹が死去、同年9月に曹操が袁譚と袁尚兄弟を攻撃します。袁尚は高幹と郭援に銘じて河東に侵攻させました。高幹と郭援は密かに関中の馬騰、韓遂と結んで匈奴の王、呼廚泉とも合流軍勢を数万まで増大させました。
これに対し、関中方面を担当する曹操配下の鍾繇が、張既らを馬騰の下に派遣して説得し再度曹操陣営に引き戻します。このため高幹と郭援の幷州軍は、馬騰が鍾繇の援軍として派遣した馬超、龐徳率いる関中軍と平陽で汾水を挟んで激突しました。
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郭援が関中軍閥に撃破され早々に降伏
しかし郭援は自惚れが強く、関中軍をあまり警戒せず渡河したため郭援が龐徳に討ち取られます。このために高幹は窮地に陥り、建安9年(204年)8月、曹操が袁尚の本拠地である鄴を陥落させると、高幹は呼廚泉と共に并州を挙げ曹操に降伏しました。
曹操は高幹の才能を高く買い、袁家の縁戚ながら処刑せず、そのまま并州の統治を任せます。このなりゆきで高幹は曹操に臣従しました。
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烏桓討伐の隙を突き壷関で蜂起する高幹
しかし、高幹はそのまま曹操の配下で終わる男ではありませんでした。
建安10年(205年)曹操が幽州に逃げた袁尚と袁煕を匿う烏桓を討伐する軍を編制すると、隙を突いて高幹は反逆します。そして上党太守を捕虜とし壷関を閉鎖しました。
一見すると、幽州の袁兄弟と呼応した反乱に見えますが、高幹はとっくに袁家を見限っていて袁尚が同盟を結ぶために派遣した牽招を殺そうとしています。高幹の反乱は群雄の一人として今なら曹操を倒せると踏んだ単独行動でした。
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