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高幹とはどんな人?袁氏屈指の野心家で策謀家、曹操を二度も窮地に陥れた奸雄

2022年8月12日


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高幹(袁紹の甥)

 

高幹(こうかん)(あざな)元才(げんさい)と言い、兗州陳留郡圉県(えんしゅう・ちんりゅうぐん・こうけん)の人です。高幹の父である高躬(こうきゅう)は、袁紹の姉を(めと)っているので高幹から見て袁紹は叔父(おじ)にあたります。

 

そういう経緯もあり、高幹は袁紹と行動を共にしていますが、能力的には残念な人が多い袁家では珍しく有能で袁紹没後も曹操に(そむ)き、てこずらせました。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国志では袁紹配下で息子同様の扱いされた高幹

袁紹、袁尚、袁譚

 

高幹の活躍は初平2年(191年)に袁紹の命令で、荀諶(じゅんじん)張導(ちょうどう)郭図(かくと)らと共に冀州牧(きしゅうぼく)()韓馥(かんぷく)を脅して冀州を譲らせたところからです。

 

袁紹は、有能な甥を可愛がり建安4年(199年)頃に袁紹から幷州刺史(へいしゅう)に任命されました。これが、どれだけ凄いかというと幽州の統治を任された袁煕(えんき)、青州を任された袁譚(えんたん)と同等の扱いを受けていたという事であり、袁紹は高幹を息子のように思っていたのでしょう。

 

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関中軍閥、馬騰と韓遂を寝返らせる

馬騰

 

建安7年(202年)に袁紹が死去、同年9月に曹操が袁譚と袁尚兄弟を攻撃します。袁尚は高幹と郭援(かくえん)に銘じて河東(かとう)に侵攻させました。高幹と郭援は密かに関中の馬騰、韓遂と結んで匈奴の呼廚泉(こちゅうせん)とも合流軍勢を数万まで増大させました。

 

曹操のもとで才能を発揮する鍾繇(しょうよう)

 

これに対し、関中方面を担当する曹操配下の鍾繇(しょうよう)が、張既(ちょうき)らを馬騰の下に派遣して説得し再度曹操陣営に引き戻します。このため高幹と郭援の幷州軍は、馬騰が鍾繇の援軍として派遣した馬超(ばちょう)龐徳(ほうとく)率いる関中軍と平陽で汾水(ぶんすい)を挟んで激突しました。

 

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郭援が関中軍閥に撃破され早々に降伏

郭援

 

しかし郭援は自惚れが強く、関中軍をあまり警戒せず渡河したため郭援が龐徳に討ち取られます。このために高幹は窮地に陥り、建安9年(204年)8月、曹操が袁尚の本拠地である鄴を陥落させると、高幹は呼廚泉と共に并州を挙げ曹操に降伏しました。

 

ホウ徳

 

曹操は高幹の才能を高く買い、袁家の縁戚ながら処刑せず、そのまま并州の統治を任せます。このなりゆきで高幹は曹操に臣従しました。

 

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烏桓討伐の隙を突き壷関で蜂起する高幹

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しかし、高幹はそのまま曹操の配下で終わる男ではありませんでした。

 

建安10年(205年)曹操が幽州に逃げた袁尚と袁煕を匿う烏桓を討伐する軍を編制すると、隙を突いて高幹は反逆します。そして上党太守(じょうとうたいしゅ)を捕虜とし壷関(こかん)を閉鎖しました。

 

曹操から逃れる袁尚

 

一見すると、幽州の袁兄弟と呼応した反乱に見えますが、高幹はとっくに袁家を見限っていて袁尚が同盟を結ぶために派遣した牽招(けんしょう)を殺そうとしています。高幹の反乱は群雄の一人として今なら曹操を倒せると踏んだ単独行動でした。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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