この記事の目次
壷関は魏の首都鄴へ繋がる交通の大動脈
壷関は、太行山脈の中間にあり、ここを折れ曲がって西へ向かうと当時の魏の主要な都市である鄴への近道でした。逆にここを塞がれると北の太原から迂回路を通る事になり、とても遠回りです。
高幹は壷関を抑えた上で鄴へ奇襲軍を送り込み、河東郡の衛固、弘農郡の張琰、黒山賊の張晟らが高幹に呼応して諸郡を占領するなど、河北から関中までを巻き込む大規模な作戦を展開します。
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反乱は失敗し高幹は捕らえられ殺害される
しかし、鄴を守る監軍校尉、荀衍は奇襲軍を察知し全て誅殺します。
さらに別働隊の楽進と李典が北道から迂回して高幹の背後を脅かしたので高幹は敗北し壷関に籠城。こうして高幹の動きを封じた上で、曹操軍は巧みな政略を駆使して衛固、張琰、張晟等を個別で撃破し諸城を開放します。
建安11年(206年)1月、曹操が自ら大軍を率いて壷関を攻めると高幹は呼廚泉を頼りますが呼廚泉は援軍を送りませんでした。
三か月後に曹仁の策で壷関が陥落すると、高幹は荊州の劉表を頼って落ち延びようとしますが、その途中で上洛都尉王琰に殺害されます。
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高幹の性格
高幹は才能と野心に溢れ、文武に優れた人物で袁紹も実力を認めて息子並みの待遇を与えていました。高幹も伯父の袁紹をまねて、多くの士を招いて帰属させていましたが、その中に仲長統という人材がいて、高幹は彼を屋敷に招き歓待します。
仲長統は高幹を見て「あなたは雄大な野心を備えていますがそれを制御する器量がありません。また人材を好んでおられますが、人材を慎重に選ぶ事をしていません」と高幹に驕り高ぶる点がある事を注意し、改めるように諫言しますが高幹は従わず、仲長統は禍を恐れて、高幹に仕官しませんでした。
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常に計画が完璧だった高幹
慢心から滅んだ高幹ですが、2度も曹操陣営の背後を衝いて危機に陥れ、しかも、建安7年(202年)の河東進攻も建安10年(205年)の上党反逆も用意周到かつ迅速綿密で、まったく計画を外部に漏らさず曹操でも阻止できませんでした。
一歩間違えば、曹操を倒し、突如として中原に覇を唱えた可能性も否定できないでしょう。惜しむらくは曹操軍は曹操のみならず、団結すれば高幹に対抗できる人材に溢れていました。この事だけは高幹の計算外だったと言えます。
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対照的な従兄弟の高柔
高幹には高柔という族甥がいました。初め郷里の兗州陳留郡圉県を守っていましたが、族伯父の高幹の招きに応じ、一族を率いて彼を頼りました。その頃、父が任地の益州で死去したとの知らせを受けたため、高柔は3年がかりで益州に赴き父の遺体を引き取っています。
その後、曹操が袁氏を平定すると、高柔は菅県長に任命され治績を挙げました。しかし、高幹が曹操に再度叛逆すると高柔は従わず曹操に降伏します。
曹操は高柔を恨んでいて、いつか罪に問い処刑しようと考えて刺姦令史に任命しますが、高柔は職務が優良なので諦めて丞相倉曹属に引き立てました。
その後も、高柔は、曹丕、曹叡、曹芳、曹髦、曹奐と仕え、高平陵の変では司馬懿に味方して曹爽を攻撃するなど世渡りに長け90歳まで長寿します。野望を隠そうとしなかった高幹とは対照的な慎ましい生涯と言えますね。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は袁紹の甥で、恐らく袁紹を除けば一番優秀な高幹を紹介しました。
結果としては袁家を切って独立した群雄になった高幹ですが、元々実力で成り上がった人なので、あまり裏切り者イメージがありません。曹操が一度高幹を許したのも、こいつは袁家の仇をうつようなセコイヤツではないと思ったからでしょう。
しかし、才能と同じくらい野望に満ちた高幹は曹操の配下で終わるつもりは全くなく、全力で叛いて失敗し、三国志を彩る徒花として生涯を閉じたのです。
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