曹操(そうそう)と袁紹(えんしょう)は、幼馴染で年齢も近い、不良仲間でした。
その両者が、後漢末の戦国の動乱でライバルを倒して生き残り華北の覇権を巡り、激突したのが西暦200年の官渡の戦いです。ちょっと見ると、三国志では曹操(そうそう)の活躍が派手であり、おまけに献帝(けんてい)も擁しているので、戦力的には曹操(そうそう)が有利なイメージを持ちます。
ところが、実際は、逆で曹操(そうそう)は劣勢だったのです。
前回記事:44話:複雑な官渡の戦いを時系列で紹介
この記事の目次
袁紹(えんしょう)は何で有利だったの?
袁紹(えんしょう)が支配している地域は、黄巾の乱の本拠地であった事情から、略奪の被害が少なく、土地も荒れ果てていませんでした。
それに加えて、袁紹(えんしょう)の当面の敵は、幽州にいた公孫瓚(こうそん・さん)だけで、曹操(そうそう)のように複数の敵に備えて兵力を分散させなくて良かったのです。
曹操(そうそう)が劣勢だった理由とは?
一方の曹操は、なまじ中国のど真ん中を領有した為に、劉表(りゅうひょう)、袁術(えんじゅつ)、劉備(りゅうび)、馬騰(ばとう)、孫策(そんさく)、呂布(りょふ)、等の複数の敵を抱えていて、おまけにこの地域は何度も支配者が変わった関係で、土地が荒れ果てて、回復していませんでした。
青州兵30万人の軍勢を持っていた曹操だが・・・
曹操は、青州兵と呼ばれる30万人の兵力を擁してはいましたが、これらも各地に分散しないといけないので、全てを袁紹(えんしょう)相手に向けるわけにはいかない事情もあったのです。
袁紹(えんしょう)と曹操(そうそう)の戦力差はどれだけあったの?
さて、気になる袁紹と曹操の戦力差ですが、、三国志演義によれば、曹操が7万人に対して、袁紹は、70万人と記録されているようです。つまり、戦力差は10:1、まさに象と蟻の戦いになっています。
曹操軍の悩み
さらに曹操(そうそう)にとっては厳しい事に、曹操軍は兵糧も不足していました。一方の袁紹(えんしょう)は、大軍にも関わらず、兵糧にも余裕があったのです。
第一ラウンドである、白馬・延津の戦いでは、曹操軍の荀攸(じゅんゆう)の計略にハマり顔良(がんりょう)と文醜(ぶんしゅう)という二将を討ち取られ、惨敗した袁紹(えんしょう)ですが、その程度では戦力と物量差は覆らず、袁紹は余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)だったのです。
袁紹軍の軍師達の戦略
実際に、袁紹の軍師である沮授(そじゅ)も田豊(でんぽう)も、兵糧と大兵力を活かして、曹操軍のたてこもる官渡(かんと)城を囲み、数年をかけて兵糧攻めにすれば、一兵も損なわずに勝てますと進言しています。
袁紹軍が長期決戦を辞めた理由
ところが、袁紹(えんしょう)は長期決戦を退けていました。理由は、白馬・延津の戦いの大惨敗が悔しかったからです。袁紹は、不良時代から曹操には敵わず、その後塵(こうじん)を拝していました。
家柄の違いから、その後の出世レースでは有利に立ち、一時期は、曹操を配下にしていたものの、曹操はいつの間にか献帝(けんてい)を擁して独立し、立場は自分より上になっています。
さらに今回の決戦での敗北、、袁紹のプライドは傷つき、何としても直接対決で曹操を踏み砕くという激しい怒りに燃えていたのです。
そして、曹操にとっては、この決戦を急ぐ袁紹の対応は、兵糧不足で短期決戦を望む自分の思惑に適うものでした。