孔明の北伐はノープランだった!?北伐の意図は何だったの?

2015年11月13日


 

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はじめての三国志

 

はじさんは、そろそろ、ブログを立ちあげてから1週年を迎えます。

最近は、本編の歩みがかなり遅くなり、孫子の兵法や武将列伝や、

キングダム関連、三国時代の日常などが増えていますが、それでも本編では

劉備(りゅうび)が死を迎え、時代は北伐へと向かっています。

 

実は、この後にはじさんでは、孔明(こうめい)の南蛮征伐が数回続くのですが、

その以後に展開する北伐についてのあれこれについて、ここで分かりやすく

解説していきたいと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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疑問1 どうして孔明は北伐をやったのか?

天下三分の計

 

三国志ビギナーの人には、孔明の北伐について、

違和感を持つ人も多いかも知れません。

それもその筈で北伐とはイレギュラーで発生したものであり、

孔明が隆中(りゅうちゅう)の庵で劉備に天下三分の計を

披露した時には影も形も存在していないものでした。

 

それは、一体どういう事なのでしょうか?

以下で順を追って解説していきます。

 

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北伐は荊州を失った事で登場したプランだった

関羽 激怒

 

元々の孔明の魏を打倒するプランには、益州のみならず荊州も含まれています。

魏と呉を戦わせている間に劉備が荊州と益州を握る事で、

はじめて蜀は、魏や呉と張り合うだけの足腰を養う事が出来ると考えたのです。

 

しかし、荊州を領有していた関羽(かんう)は呉と不仲になり、その隙をつかれて

呉は魏と同盟して関羽を挟撃して関羽は討ち取られてしまいます。

それと同時に、荊州は失陥してしまい、孔明の天下三分はその前提が

崩壊してしまうのです。

 

 

益州は山に囲まれた不便な土地

 

益州は手元にありますが、周辺を山に囲まれた不便な土地でした。

こうして、蜀は国力において、魏どころか呉にも及ばないという

ハンディを背負いながら、三国鼎立を戦わないといけなくなったのです。

 

その意味では、北伐は完全なイレギュラー、孔明のプランには、

最初は含まれる事がなかったノープランアクションだった事になります。

 

 

南蛮征伐も北伐への準備だった

孔明

 

孟獲(もうかく)を七従七禽して心服させた孔明の南蛮征伐も、

北伐を決行するにあたり動きが不安定になる南方の異民族を心服させて

魏や呉の煽動に乗らせない為になくてはならない方法でした。

 

曹丕(そうひ)孫権(そんけん)も劉備も、敵地に攻め込むに至っては、

この異民族の煽動をしていて孔明としても自領の異民族が

煽動に踊らされないように処置するのが重要だったのです。

 

これも、孔明からすれば、荊州と益州があれば、さほど気にしなくても

良かった事でしたが、プランの変更から征伐せざるを得なくなります。

 

孔明の北伐の意図は何?

孔明 劉備の剣とハンコ

 

孔明の北伐の意図については、本気で魏を討つつもりだったという説から、

本気ではない、ただのデモンストレーション(示威行動)という説まで幅広いです。

では、現在、唱えられている、主な3つの説をここで紹介しましょう。

北伐デモンストレーション説

諸葛孔明

 

諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)は本気で魏を落せるとは考えておらず、

北伐は「俺達をなめると痛い目をみるんだぜ~」という

デモンストレーションであったという説です。

 

事実、魏はいつまでも北伐に防戦したのではなく大将軍の曹真(そうしん)などは、

魏の司令官として攻勢に回り蜀を討伐する南征を計画していました。

ですが、大雨で蜀への桟道が壊れたので断念したりしています。

 

孔明が北伐をしないで引きこもると「蜀の国力は衰えた」と見て

さらなる南征を呼び起こす可能性も無いとは言えなかったのです。

 

また、蜀は蜀漢というようにあくまで後漢の後継者であると自認したので、

その存在意義を失わない為に、常に魏に対して攻勢に出ていないと

正統性が保てないという問題も持っていました。

 

 

北伐による魏の国力の削減説

孔明バージョン 三国志 軍師

 

魏を滅ぼすというよりも、積極的に攻めて行く事で魏の国力をすり減らし

蜀に本格的な討伐軍を送り込むのを阻止しようとしたという説です。

攻撃は最大の防御という考えから、無理をしても北伐を続けて、

蜀の命脈を伸ばし、出来れば魏における政変によって魏が倒れるような

千載一遇の好機を望んだと考えられます。

 

孔明の目論見は、そこまで的外れではなく、魏では政変が相次ぎますが、

それは皮肉にも孔明の死後、三国の緊張が緩んでからでした。

 

孔明が魏に騙された説

曹丕

 

魏は、蜀が守りを固めて引きこもる事を警戒して、あえて隙を見せて

孔明をおびき出し、北伐を起させたという説です。

この説に立つと、孔明は魏に完全に手玉に取られ、五回に渡って

北伐を繰り返した揚句に、蜀の国力をガタガタにして、自身は疲労して

寿命を縮めたという、馬鹿な司令官という事になります。

もし、これが真実なら蜀の人々はいい迷惑という事になりますね。

 

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北伐が産み出した意外なインパクト

 

孔明の北伐は軍事的には失敗でしたが、政治的には魏に変化を与えます。

北伐の開始と同時期に皇帝に即位した曹叡(そうえい)は孔明に対して大きな脅威を抱き、

第一次北伐では、わざわざ洛陽から長安まで親征して魏兵の士気を鼓舞しました。

ところが、孔明の死後、北伐が停止されると人が違ったように贅沢に耽り

大土木工事を繰り返すなどして、魏の国力を消耗させます。

 

 

これは、孔明が存在した事で張り詰めていた精神の糸がぷっつり切れてしまい

元々存在した曹叡の贅沢心に歯止めがかからなくなったからかも知れません。

もっとも、孔明と同じ頃、235年には曹叡の養母の扱いだった、

曹丕の正妃、文徳皇后郭氏が死去しています。

 

郭皇太后は倹約家で、贅沢を戒めていた上に曹叡は彼女に服していました。

養母の死で曹叡の本来の性質にブレーキが掛らなくなった可能性もあります。

ですが、北伐が消えて、しばらく蜀に警戒して軍事費を掛けなくて

済むようになった事も、曹叡の目を贅沢に向けた一因にはありそうです。

 

蜀漢正統論を産み出す切っ掛けになった

 

もし、孔明の北伐がなかったなら、蜀漢は魏の圧迫を逃れて秦嶺山脈の合間で

ようやく息をしているだけの地方政権として、歴史書に特筆される事は無かったでしょう。

しかし、まがりなりにも、劉氏の血を引く劉備の子孫を立てて、後漢の回復を

スローガンにした孔明の北伐は、後世に大きな影響を与えます。

 

例えば、東晋は、中原を異民族に奪われて江南に逃れたものの、

著しく弱体化していて、桓温(かんおん)・桓玄(かんげん)父子や

劉裕(りゅうゆう)によって王位を狙われる事になります。

そこで、彼等、纂奪者は、魏を受け継いで晋が建国したという禅譲を否定する為に、

蜀漢こそが正統な王朝で、晋は蜀漢を滅ぼした時に建国したという主張をします。

 

これが、蜀漢正統論の起こりで、習鑿歯(しゅうさくし)の「漢晋春秋」や

袁宏(えんこう)の「後漢紀」は、蜀漢正統論の立場に立って執筆される事になりました。

さらに、東晋の滅亡後に、南朝に立った漢民族の王朝は、自分達の立場を、

曹魏に追われて巴蜀に逃れた蜀の立場に重ねる心情が産まれます。

この蜀ひいきの感情は、12世紀に満州族により中原を追われて江南で建国した、

南宋王朝に産まれた朱熹(しゅき)と彼が起こした朱子学によりさらに強化されます。

 

こうして、軍事的には惨敗した孔明の北伐はイデオロギーとして生き残り、

勝者である曹操を歴史書の隅に追いやり、とうとう正統な王朝の地位を得たのです。

これも、孔明が蜀漢の正統性を主張し、北伐により中原を回復しようとした

具体的なアクションが評価された結果であると言えるでしょう。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

いかがでしょうか?孔明の北伐には、1デモンストレーション、2魏の国力の低下、

3魏の陰謀に騙されたと大体、3つの理由が考えられます。

 

 

そんならお前はどう思うんだ?という読者の方の質問にお答えすると、

kawausoは②の攻撃的防御の説を採用します。

 

というより、五度に渡る北伐の1回目は、本気で魏を陥落させようと意図したもの

それ以後は、魏の警戒が厳重になった事で攻撃的防御の側面が強くなったのでは?

そのような印象を受けるのです。

 

孔明は冒険的な戦略を好まないので、一か八かの攻撃より、

魏の政変を掴んで呉と同盟して、魏を滅ぼそうと考えていたので、

ついにその機会を得られず亡くなったのではないか?と思います。

 

しかし、軍事的に敗れた孔明が拘った蜀漢こそ正統というイデオロギーは、

後の時代になって採用され、ついには曹魏を正統から引きずりおろしました。

かなりのタイムラグが出ましたが、長い目で見ると、孔明の北伐は、

政治的には大成功という事も出来るかも知れません。

 

今日も三国志の話題をご馳走様でした。

 

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北伐の真実に迫る

北伐

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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