三国志ファンの多くは、『正史三国志』と『三国志演義』のどちらが好きかと問われれば、『三国志演義』と答えるのではないでしょうか。なぜなら、『正史三国志』では、阿斗を守るために趙雲が敵陣をくぐりぬける姿を見て、
「かっこいい……!」と目をハートにしたりできません。
赤壁で東南の風を呼ぶ孔明を見て、「なにこのヒト、スゴイ!」と感動することもできません。
やはりどうしても、『三国志演義』びいきになってしまうのは否めませんので、少し、『正史三国志』のすごいところについて、書いてみたいと思います。
関連記事:赤壁の戦いで孔明が東南の風を吹かしたじゃん?あれマジらしいよ?
関連記事:【衝撃の事実】三国志演義はゴーストライターによって書かれた小説だった!?羅漢中じゃないの?
『正史』の作者陳寿は蜀の出身
歴史家陳寿、字は承祚(しょうそ)は、三国時代の蜀に生まれました。若いころ、歴史家の譙周(しょうしゅう)に師事して、蜀の官僚となります。
陳寿が官僚となった時代の蜀は、劉禅(りゅうぜん)が君主で、宦官の黄皓が専横を極めていた頃です。すでに劉備も諸葛孔明もいない、暗愚な時代だったため、陳寿の官僚人生は、決して順調とはいえませんでした。
やがて蜀が魏に下ったのち、陳寿は職を失ってしまいます。ですが、魏はすぐに、晋に代わります。ここで再び、仕官の道が開けました。晋王朝のもとで、陳寿は『三国志』を手掛けることになるのです。
関連記事:「危うく抹殺されそうになりました、陳寿さんのおかげです」卑弥呼より
歴史書編纂の裏事情
中国の歴史書というのは、前の時代が終わった後、次の時代の人が、前時代に書きためられた資料をもとにしてひとつの歴史書として編纂するのが常でした。これは平たく言えば、「今の王朝は、こんなふうだった前の時代から、正統に受け継いだ王朝です」と、世に知らしめるためのものだったのです。
そんなわけで、できることなら、前の王朝の特に最後の方は、残念であるほうがいい。殷の紂王が若いころは賢君だったのに、急に暴君になったりするのは、こういう理由があったのです。だから傾国の美女の存在は、中国の歴史にとって、うってつけだったわけですね。
そして、前の王朝が正統である必要がある。晋は、魏から起こった王朝です。「正統」な王朝である魏から受けついだ晋も、「正統」であるという理屈です。ですが三国時代は、分裂期ですから、他にも蜀や呉という国がありました。これら二つを「国」として認めるわけにはいかないということです。そこで陳寿は、『三国志』内の年号を、すべて魏の年号でしるしました。
さらに、皇帝をしるす「本紀」には、曹操(そうそう)ら魏の君主のみを書いたのです。劉備(りゅうび)や孫権(そんけん)は、それ以外の家臣などをしるす「列伝」に入れられました。
関連記事:司馬炎(しばえん)ってどんな人?三国時代を終わらせたスケベ天下人
関連記事:権力に執着した曹操が魏王になるまでに荀彧と荀攸との間に亀裂が生じる
関連記事:曹丕が献帝を廃し魏を建国
簡明に率直に書かれた歴史書
想像でしかありませんが、蜀の出身である陳寿は、自国の皇帝であった劉禅を、もしかしたら「本紀」に入れて書きたかったかもしれません。ですが、陳寿は、魏を正統な王朝として、『三国志』を書き上げました。また、陳寿が『三国志』を手掛けた時代というのは、ついこの前のことを書いているわけですから、まだ登場人物が存命していたり、その子供が身近にいたりします。
そうすると、各方面から、様々な圧力を受けるのです。「俺の父ちゃんをよく書け」とか、「私の夫を悪く書いたら許さないわよ」とか言われるわけです。ひどいときには、脅迫まがいのことすら起こりえます。そういう危機をもかいくぐりながら、書かれた『正史三国志』です。なにか、とても重みを感じます。
関連記事:三国志は2つある!正史と演義二つの三国志の違いとは?
関連記事:リアルな正史三国志の特徴って?ってか正史三国志は需要あるの?
関連記事:誇りを失ってもなお……『史記』を書いた司馬遷の執念