秦の始皇帝、そして魏の曹操(そうそう)はともに、人材登用に関して、実に柔軟な考えを持った人でした。曹操は210年に、人材登用の方針として、以下の命令を下します。
「ただ才のみこれを挙げよ」
かみ砕いて言ってみれば、
「役に立つなら、人間性に問題があったっていい」ということです。
そこで、曹操のそういったエピソードで有名なものをいくつか挙げてみたいと思います。
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この記事の目次
陳琳へ「俺たちをおとしめても許す!」(文章うまいから)
官渡の戦いの際、袁紹の命令で、曹操とその祖父らを激しくこきおろした檄文を書いた陳琳を、曹操は戦のあと部下にしました。当時の中国人の道徳観として、自らの祖父や父といった祖先というのは、祖先神といって祀るべきもので、神にも価する大切な存在です。
私たちの時代の「おまえの母ちゃんデベソ」という感覚とはまったく違います。それを、文章がたいへん上手という理由で味方にしようと思う曹操の器の大きさは、計り知れません。
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張繍へ「息子と重臣殺されたけど許す!」(人が足りないから)
劉表と同盟を組んで曹操と戦っていた張繍は、曹操に降伏したあと、奇襲をかけて、曹操の息子曹昂や、典韋などの重臣を殺し、曹操をも殺そうとしました。
その後も曹操と抗争を続けましたが、袁紹との戦いを控えた曹操のもとへ帰順したいと言うと、あっさり受諾されました。
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呂布へ「人格にそうとう問題があるけど許す!」(めちゃくちゃ強いから)
最初の主君丁原を裏切り、父子の契りを結んだ董卓(とうたく)を裏切り、匿ってくれた劉備をも裏切り……、という、たいへん不義理な呂布。
散々煮え湯を飲まされた曹操は、ようやく呂布をとらえました。すると呂布は、「あなたが歩兵、私が騎兵を率いれば、無敵なのに」と言いました。
すると曹操は、「ほしい!」と思ってしまったわけです。残念ながらこれは、劉備(りゅうび)に止められて、部下にすることはかないませんでした。
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沮授へ「敵だったけど許す!」(旧知の仲だしね)
袁紹の部下だった沮授に対しても、官渡の戦いの際、生け捕りにして配下に迎えようとしました。しかしながら、沮授は曹操の申し出を拒否し、さらに脱走を試みたため、やむなく処刑されました。
関羽へ「劉備の義弟だけど許す!」(魅力ありすぎだから)
200年、劉備が曹操に敗れて敗走したとき、関羽は曹操の捕虜になってしまいました。関羽といえば、劉備の右腕です。劉備をつぶしたいのなら、ここで関羽をさっさと殺してしまうべきです。ですが、曹操はこれまた魅力的すぎる関羽が「ほしい!」と思ったようで、大歓迎して、たいへん手厚くもてなします。
さすがに恩義を感じた関羽は、曹操のために活躍しなければならないと、命を受けて、袁紹の部下顔良を打ち取ります。そして、義理を果たすと、劉備のもとへと帰るのです。
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