菫卓(とうたく)が王允(おういん)と呂布(りょふ)の策略で殺された後、長安で政権を握ったのは、ボスの菫卓(とうたく)の仇討ちに攻めのぼって来た李傕(りかく)と郭汜(かくし)でした。
王允(おういん)は菫卓(とうたく)側についた人間を容赦なく殺害するなど、度量が狭い政治をしたので、付いて来る人間も少なく、攻め上ってくる途中で山賊や流民を吸収した李傕(りかく)・郭汜(かくし)の軍勢5万人には、まるで歯が立ちませんでした。
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その頃、呂布は?
呂布(りょふ)は敗北するとサッサと長安を脱出、王允(おういん)は捕まえられてボスの仇とばかりに八つ裂きにされるという悲惨な最後を迎えます。
しかし、長安に上ってきた李傕(りかく)も郭汜(かくし)も「政治って何?美味しいの?」という筋肉バカの野蛮人に過ぎません。
長安の治安を回復させるどころか、部下に略奪を許し、自分達は重税を吸い上げて贅沢三昧という菫卓(とうたく)以下の酷い政治を繰り返します。
長安の人民は無茶苦茶な政治で大混乱に陥り、街には、餓死して横たわる人間の死体がどこの通りでも見られたそうです。
二人は仲違いを起こす・・・
しかも、この二人、つまらない理由で仲たがいを起こし、両者が軍を出して長安の都で内戦までしでかしてしまいます。
その為に長安の都は壊滅してしまい、都の機能を喪失してしまいます。これを受けて献帝(けんてい)は、反菫卓連合軍によって復興させられた洛陽に再び都を移す事を提案します。
これは実際は、李傕(りかく)・郭汜(かくし)の影響力から献帝を離そうという菫承(とうしょう)達、帝の側近達の策略でした。
策略は、的中し李傕(りかく)と郭汜(かくし)は折角手に入れた献帝(けんてい)を手放してしまいます。
それが二人の運の尽きで、それから2年後に弱体化した所を討たれてしまうのです。
それは兎も角、古い都である洛陽を目指していた献帝(けんてい)一行を首尾良く迎え入れる事が出来たのは曹操(そうそう)でした。洛陽で玉璽が出土した時には、「そんな石コロ」と見向きもしなかった曹操ですが、相手が献帝(けんてい)なら話は違います。
そもそも、菫卓(とうたく)が、あれだけの横暴を許されたのは、菫卓(とうたく)の手の中に献帝(けんてい)があったからです。
その頃、曹操は?
同じ頃に、曹操(そうそう)は兗州を手に入れ、青州兵と言われる黄巾賊の残党30万人を吸収した直後でした。
献帝(けんてい)が長安を逃げ出した事は、曹操(そうそう)以外にも、公孫瓚(こうそんさん)や袁術(えんじゅつ)袁紹(えんしょう)のような群雄も知っていましたが、いずれも、その価値に気がつかず放置して、勢力争いに夢中でした。
それなので、曹操(そうそう)は妨害を受ける事なく、なんなく帝を保護して手に入れ、自分は丞相(じょうしょう)に登っていったのです。
丞相(じょうしょう)って何?
丞相とは、後漢の時代の総理大臣であり、これにより、曹操(そうそう)は他のライバル達の上に立つ事が可能になりました。曹操(そうそう)は献帝(けんてい)を本拠地の許昌(きょしょう)に迎えて事実上の帝都にし多くの人材を集められるようになり、さらに繁栄していくようになります。
市民平等の現在でも、どこどこの戦国武将の末裔とかいう人を見ると私達は、少し見る目を変えてしまいますよね?これも血筋という不思議なモノに私達が影響を受けている現れです。
曹操は、科学で証明出来ず、人工的に造りだす事も出来ない血筋というものの価値をよく理解していたのです。
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