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鍾会(しょうかい)ってどんな人?蜀を滅ぼして独立を目指した男

2015年9月22日


 

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鍾会

 

孔明死後の三国志というのは、極端に知名度が落ちる傾向にあります。しかし、その中でも天下統一のエネルギーと各武将の野望は渦巻いていました。今回は、その中から、蜀漢の討伐後に独立しようとした魏将の鍾会(しょうかい)を紹介します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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魏の重臣、鐘繇(しょうよう)の子として若くして出世する

 

鍾会は西暦225年に魏の重臣である鐘繇の息子として生まれます。鐘繇の母は教育熱心で4歳の頃から鐘会に「孝経」を読ませて暗誦させまた、論語、詩経、易、春秋左氏伝など沢山の本を買い与えます。5歳の時の鍾会を見た蒋済(しょうさい)は、「並はずれた人物」と鍾会を評価しています。すでに、こんな小さい頃から鍾会には非凡な才能があったのです。15歳で太学に入ると、鍾会の母は教える事もなくなり、これからは自分で勉強するように言いました。この頃になると学識で並ぶものなしという秀才になり、20歳では出仕才略と技能にすぐれて博識である事からとんとん拍子で出世します。

 

司馬師(しばし)、司馬昭(しばしょう)に重用されるも陰険な一面も・・

 

鍾会は曹芳(そうほう)時代に、秘書郎(ひしょろう)に任ぜられ次には尚書中書侍郎(しょうしょ・ちゅうしょ・じろう)に昇進し曹髦(そうぼう)時代になると関内侯の爵位を貰っています。

 

高句麗まで攻めるカン丘倹

 

魏王朝の実力者である司馬師・司馬昭に重用され相次ぐ魏の重臣の叛乱、(毌丘倹(かんきゅうけん)文欽(ぶんきん)乱)の鎮圧に参謀として参加して知略を奮い西暦257年の諸葛誕の叛乱では再び参謀として軍事を取り仕切って諸葛誕の救援の呉の全懌(ぜんたく)を策略で逆に魏に帰順させ勝利に貢献します。当時の魏の人々は鍾会を漢の高祖の軍師の張良のようだと称えたそうです。一方で鐘会は、陰険な策略で他人を追い落とす事も辞さない、非情な一面も持っていました、嵆康(けいこう)も鐘会に讒言されて殺された1人です。

 

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架空戦記  

 

野望を膨らませる鍾会

野望を膨らませる鍾会

 

そんな鍾会は、自分の才能を誇り誇示する所がありました。友人傅嘏(ふか)にも、「お前は才能と野望が釣り合わないから自重しろ」と注意されていますし、司馬昭の妻の王元姫(おうげんき)は仕官した鐘会を見て、

 

「鍾会は利ばかりを見て、義を忘れ何でも自分でやりたがる人です。あまり重く用いると必ず公私の区別を無くし禍を起します。大事な任務では使わないように」と夫に忠告したそうです。

 

司馬昭、鍾会を大将軍にして蜀を攻めさせる

 

しかし、司馬昭は妻の忠告を本気にはしなかったようです。西暦263年、蜀の国力が姜維(きょうい)の北伐の失敗と段谷(だんこく)の戦いの大敗により衰えたとみた司馬昭は、蜀の地形を調べ抜いて、鍾会を鎮西(ちんぜい)将軍・仮節(かせつ)・都督関中諸軍事(ととくかんちゅうしょぐんじ)に任命して10万の大軍を与えて蜀に進攻させます。

 

実際には、魏将鄧艾(とうがい)にも3万、そして諸葛緒(しょかつしょ)に3万の軍勢が与えられて別方向から蜀に進撃しているので魏の総勢では16万の軍勢になります。鄧艾と諸葛緒は、蜀の重鎮である姜維を攻撃する為に動き、鍾会は天然の要害である漢中に進軍します。

 

劉禅(りゅうぜん)は宦官、黄皓(こうこく)の占いを信じて援軍要請を無視

劉禅

 

姜維は援軍を要請しますが占いに凝っていた宦官黄皓は、援軍要請を無視するように劉禅に進言し、劉禅は援軍を送りませんでした。これにより、姜維は自分の手勢だけで鄧艾、諸葛緒と戦う羽目になります。ようやく蜀の領地に魏軍が入ってから張翼(ちょうよく)、廖化(りょうか)を派遣しますが、時は既に遅く姜維は剣閣まで後退して援軍と合流する有様でした。しかし、剣閣は天然の要害でした、同じく鄧艾と諸葛緒と合流した鐘会ですが、どんなに頑張っても、剣閣を落す事が出来ず、一時は補給を心配し撤退を考えます。

 

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鄧艾が剣閣を迂回する命懸けの策を提案

鄧艾が剣閣を迂回する命懸けの策を提案

 

鍾会は撤退を考えますが、それに鄧艾がストップを掛けます。

 

「剣閣(けんかく)では苦労しているとは言え蜀兵の士気は低く我が軍は士気旺盛です。この勢いを殺す事なく別働隊を組織して剣閣を迂回して陰平(いんへい)より横道を通って漢の徳陽亭を経て涪(ふ)へ向かいましょう。さすれば、剣閣から百里、成都から三百余里の地点に出ることになり、奇兵で敵の中心部を衝く事になります。

 

驚いた劉禅は必ず姜維を剣閣から呼び戻す筈ですし、仮に呼び戻さないとしても涪に対応する兵力は少なくてすみましょう」

 

鄧艾、命懸けの迂回を成功させ成都を攻略させる

鄧艾、命懸けの迂回を成功させ成都を攻略させる

 

鄧艾は言い出した責任者として、自身が3万の兵力で剣閣を迂回するルートを探しますが、それは断崖絶壁を徒歩で降る旅でした。鄧艾は岩山にトンネルを掘り、急な斜面は体にカーペットを巻いて、勢いのままに転がり降りると言う危険な行軍をします。もちろん、食糧は上手く運べず、水もなく飢餓のピンチまで招いてしまいますが、とうとうやり抜き剣閣を迂回して涪に到着しました。

 

鄧艾と全面対決で敗れて亡くなる諸葛瞻

 

そして、驚き慌てている蜀軍の虚を突いて休む事なく攻撃、綿竹関で諸葛瞻(しょかつせん)が率いる最後の砦を再三攻めて陥落させて、諸葛瞻を戦死させました。それを知った劉禅は震えあがり、重臣の譙周(しょうしゅう)の勧めを受けて降伏を決意します。こうして、蜀漢は西暦263年に滅亡しました。

 

 

手柄を鄧艾に奪われた鐘会だが・・

姜維

 

劉禅の降伏により、剣閣に立て籠る姜維もやむなく降伏します。蜀兵はあっけない幕切れを悔しがり、剣で石を斬りつけて泣きました。鍾会も本隊として進軍しながら、手柄を鄧艾に奪われた形になります。ところが、その間にも鍾会は、姜維と戦う時に諸葛緒が及び腰だったと魏の司馬昭に密告して、諸葛緒の兵力3万を自分に組み込むなど、不穏な動きをしていました。

 

独立したくウズウズする鍾会

 

姜維も鐘会に降伏したものの、鐘会に天下への野望がある事を見抜き、鐘会を利用して蜀を復活させようと企み、積極的に接近していきます。

 

鄧艾、越権行為で司馬昭に更迭される

鄧艾、越権行為で司馬昭に更迭される

 

成都を陥落させた鄧艾も、鐘会と同タイプの自己顕示欲が強い将軍でした。彼は、蜀に続いて呉も陥落させようと考え、劉禅を王に封じて、蜀を厚遇し、造船を行い、農業を推奨して兵糧を増産しましょうと司馬昭に手紙を出したのです。

 

司馬昭は返書で「お前は一将軍であり勝手な振舞いは許されない、命令を遵守せよ」と強い口調で責めていますが鄧艾は反対に口答えします。

 

「古来より将軍というものは本国を離れたら君主の命令でも聞かない場合が御座います」

 

それを知った鍾会はチャンスと見て、ここぞとばかりに、本国の司馬昭に手紙を送ります。

 

「鄧艾はもうじき反逆致します、謀反の芽は一刻も早く摘みましょう」司馬昭は、鍾会に鄧艾を逮捕するように命じました。

 

トウ艾が気に食わない鍾会

 

鍾会は喜び勇んで鄧艾を捕まえ護送車に乗せて魏に送り返しました。こうして鄧艾の軍勢を吸収した鐘会は蜀の敗残兵を含めて20万の大軍を率いる勢力になります。

 

鍾会、姜維の唆しに乗り蜀で独立、、しかし

鍾会、姜維の唆しに乗り蜀で独立

 

鄧艾を更迭した鐘会は、野望をますます膨らましました。「俺には蜀の天然の要害と20万の兵力がある。隙を見て魏に攻め込み首尾よくすれば司馬昭を倒して天下人になれよう。もし、しくじっても、守りを堅くすれば劉備のように益州の支配者にはなれる筈だ・・」

 

姜維もそれに同調し、鍾会に批判的な将軍を騙して捕えてしまうように進言します。

 

殺害される姜維と鍾会

 

ところが、鍾会が呑気に構えている間に鍾会の動きに不信を覚えた一部の武将が反乱を起して鍾会を殺害、同時に共犯の姜維も殺したので独立は未遂に終わりました、鍾会は亨年40歳でした。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

孔明亡きあとの蜀が没落したのは言うまでもありませんが、一方で魏も、曹王朝の力が衰えるに従い、重臣の叛乱が続出します。それを討伐する形で司馬師、司馬昭の兄弟が台頭してくるのですが、その忠実な家来に見えた鍾会が蜀で独立を企んだのは、司馬昭にとっては予想外だった事でしょう。しかし、鍾会、独立計画が杜撰すぎて少年期の神童ぶりが嘘みたいです。やはり、元々の性格の自惚れと自己顕示欲がマイナスに働いたのですかね・・今日も三国志の話題をご馳走様でした。

 

魏のマイナー武将列伝

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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