三国志の時代のみならず、古代中国の歴史全般を扱う『はじめての三国志』ですが、このメディアを読んでいてこんな疑問を持った方もいらっしゃるのではないでしょうか?
『魏とか呉とか、三国志以外の時代にも同じ名前の国があるよな?』
確かに中国の歴史上、「魏」「呉」「蜀」の名前を持つ国は複数存在しています。なぜ、同じ名前を持つ国が歴史上いくつも存在しているのでしょうか?
そのことを疑問に思った筆者が調べたところ、なんと衝撃の事実が判明しました。魏とか呉とか蜀とか、そんな名前の『国家』は実は存在しなかった!?一体、どういうことなのでしょうか・・・?
関連記事:三国志を楽しむならキングダムや春秋戦国時代のことも知っておくべき!
この記事の目次
実は国名ではなく王朝の名前だった
中国人の大半を占める漢民族には古来、自分たちの民族(中国)が宇宙の中心にあるという思想がありました。これを中華思想といいます。
皇帝はその宇宙の中心において、天(世界)すべてを支配する者とされました。世界全体が皇帝の支配する唯一無二の領域であるわけですから、従ってそれと対等の立場となる外国や、その支配者などは存在しない、ということになります。
このような理由から、始皇帝以降の時代、歴代王朝は自らの国名を定めることはありませんでした。「魏」「呉」「蜀」はすべて王朝を示す名称であって、国名ではなかったのです。
関連記事:中華統一後の始皇帝は大手企業の社長並みの仕事ぶりだった!?彼が行った統一事業を紹介
関連記事:封神演義(ほうしんえんぎ)って何?殷末の武将たちの戦いをもとに書かれた小説
現在の中国も・・・
現在の中国の正式名称である「中華人民共和国」も、読んで字のごとく件の中華思想に基いて命名された国名です。
関連記事:お酌上手になって株を上げよう!古代中国のお酒のマナーを紹介!
関連記事:二つの中国はどうして出来た? 台湾問題を三国志で分かりやすく解説するよ
歴史上、なぜ同じ名前の王朝が存在するの?
それでは、どうして歴史上、同じ名前の王朝が複数あるのでしょうか?
それは、王朝の名前の由来を調べてみるとわかってきます。
「魏」とは、もともと古代中国の周の時代にあった都市国家の名前でした。現在の山西省にあった国で、後に、その地に報じられた諸侯に贈られる封号として「魏」という名称が用いられるようになりました。
「呉」も、もともとは周の時代に存在した王朝を指す名称でしたが、秦の時代以降、郡県の名称として用いられるようになります。
「蜀」とは現在の四川省の辺りを指す地名で、古代から『巴蜀』の地と呼ばれてきました。
関連記事:曹丕が建国した魏ってどんな王朝でどうやって滅びたの?
関連記事:戦国四君 元祖男気ジャンケン、魏の信陵君
要するに、その王朝があった地方の名称だった
かなりおおざっぱにまとめて言ってしまえば、「魏」「呉」「蜀」はいずれも地方を指す名詞であり、その地に興った王朝がそれを王朝そのものの呼称として利用していたわけです。
あえて現代の日本で例えて言うなら、四国や九州に興った王国が『四国王国』『九州王国』と名乗るようなもの……と考えるとわかりやすいかもしれません。
三国時代以外の「魏」
魏は古代、周の時代にあった都市国家の名前であったことは前述の通りですが、戦国時代にもその呼称を持つ王朝が存在しました。三国時代から遡ること600年ほど前の紀元前450年頃に成立した国の一つが魏です。
魏は後に漢の時代の首都となる洛陽を含む領域を支配し、一時は『戦国七雄』と呼ばれる強国のひとつとして栄えますが、その後勢力を伸ばした秦によって滅亡させられています。
戦国時代の「魏」以外にも、三国時代より後の五胡十六国時代に、やはり「魏」という名称を持つ王朝が存在しています。
関連記事:五胡十六国の火種は曹操が撒いた?各時代の異民族を紹介
「魏」は「晋」から独立した王朝だった
魏が成立した頃、同時に「韓」と「趙」という国も成立しています。これらはすべて「晋」という国から独立したものであることから、まとめて「三晋」と呼ばれることもあります。
戦国時代の「魏」は「晋」から独立することで成立し、三国時代の「魏」から帝位を簒奪した司馬炎の王朝は「晋」と呼ばれました。ちょっと、面白い対比ですよね。
関連記事:司馬炎(しばえん)ってどんな人?三国時代を終わらせたスケベ天下人
関連記事:司馬炎の皇位は「譲ってもらったもの」?中国史のフシギな言葉「禅譲」の意味を考える
三国時代以外の「呉」
戦国時代より更に昔、三国時代の700年程前の春秋時代、繁栄を誇った国に「呉」がありました。
春秋時代の呉は、名臣とされた伍子胥や、『孫子』の作者として知られる孫武が仕えた国で、当時最大の列強国としてその名を馳せました。
「呉」の名は特に、同じ列強国である「越」と覇権を争い激しく戦ったことで知られています。
呉の六代王闔閭は越との戦いで負傷し後に死亡、闔閭の後を継いだ夫差は父の仇である越王・勾践を一度は滅亡寸前まで追い詰めますが、結局夫差は勾践の策略にハマり、呉は越によって滅ぼされてしまいました。
夫差は父である闔閭の復讐を忘れないために薪を敷いた上に寝て、勾践は夫差に煮え湯を飲まされた恨みを、苦い肝を舐めて忘れないようにしました。この故事は後に「臥薪嘗胆」という言葉の元となります。
また、仇敵同士が同じ場所にいることを「呉越同舟」といいますが、これも春秋時代の「呉」と「越」の故事から生まれた言葉です。
呉市の名前の由来は孫権にある?
広島県にある呉市という地名は、三国時代に「呉」を興した孫権の子孫が戦乱を逃れて日本に流れ着いて定住した地を「呉」と書いて「くれ」と読んだことに由来する、という説があります。
関連記事:不老不死の妙薬を求めて? 孫権の倭国(日本)遠征計画
関連記事:日中交渉は卑弥呼と魏だけではない!?
三国時代以外の「蜀」
現在の四川省に当たる地は古来より「巴蜀」の「巴」は現在の重慶市の辺り、「蜀」は現在の成都市の辺りを指す地名)と呼ばれ、山岳に囲まれた天然の要害の地として知られていました。
春秋戦国時代にこの蜀を支配した国のことを一般には「古蜀」と呼びます。蜀と争っていた隣国の巴は秦に救援を求め、秦はこの求めに応じて蜀に軍を派遣します。蜀王自らその迎撃に当たりましたが、結局彼は戦死して蜀は秦によって平定されてしまいます。後に巴もまた、秦によって滅ぼされてしまいました。
関連記事:曹丕(そうひ)得意の詩で蜀の調理法を斬る
関連記事:劉備入蜀の立役者、龐統の全戦歴
三国志ライター 石川克世の独り言
それにしても、なぜ王朝を地名で呼ぶことが多いのでしょうか?
唯一無二の王朝であれば、唯一無二の名前で呼びそうなものですが……。
名前というものは、名付けられる対象を他の物と区別するためのものです。たったひとつしかない(筈)の王朝は、そもそも他の王朝と呼び分ける(区別する)必要もなく、従ってその区別に必要な名前自体、本来不要のものです。
しかしそれだと、現実には存在する(した)他の王朝との区別が曖昧になってしまいます。そこで、便宜上呼び分けるために、その王朝があった土地の名前をつけたのかもしれません。案外おおざっぱというべきか、あるいは苦肉の策というべきなのか・・・。
それでは、次回もお付き合いください。再見!!