曹操(そうそう)の創業期から支え続け、名臣といっても過言ではない荀彧(じゅんいく)
彼が最初に曹操の元を訪れた時、曹操は彼を見て「わが子房(しぼう)」が来たと
言って大いに喜んでいました。
ついでに子房とは前漢の名軍師である張良(ちょうりょう)の事です。
こうして荀彧は曹操に仕え、軍事面や内政面、
人材に対してなど実に様々なことに対してアドバイスを行います。
しかし赤壁の戦いから4年後、曹操が孫権討伐に赴いた際、
彼は突如亡くなってしまいます。
この記事の目次
- 1ページ目
- 荀彧と曹操の仲はどうだったのか
- わが子房と称賛
- 優秀な人材を多く推挙
- 荊州討伐の策を献策
- 赤壁での大敗北
- 魏公就任に反対
- 軍を慰問する
- 寿春で亡くなる
- 2ページ目
- なぜ荀彧は亡くなったのか【三国志演義版】
- 正史三国志による荀彧の死の原因
- 荀彧の憂いを考える
- 漢の忠臣として亡くなった荀彧
- 本当に漢の忠臣だったのか
- 楚の義帝に起きた出来事とは
- 義帝と同じように献帝を使えばよい
- 3ページ目
- 何が原因で亡くなったのか
- 漢の復興を目指した
- 義帝の話を引用したのか?
- 皇帝の権威を利用して、曹操に天下統一をさせる
- どのように目標転換したのか
- なぜ公の位に就こうとしたの
- 形の上での天下統一って
- 曹操が裏切ったと考え、公就任に反対
- 三国志ライター黒田廉の独り言
荀彧と曹操の仲はどうだったのか
荀彧の死因を述べる前にまず、彼と曹操はどのような関係であったのかを
述べてみようと思います。
わが子房と称賛
荀彧は最初、袁紹(えんしょう)に仕えておりましたが、
彼に見切りを付け、曹操に仕えます。
曹操は荀彧が来て士官を望んだとき大いに喜び、
彼に対して「わが子房が来た」と称賛します。
その後、長安から逃れてきた献帝(けんてい)を保護するように進言。
この進言により、曹操は中華の群雄から一歩抜きんでることになります。
また官渡の戦い(かんとのたたかい)では、
袁紹軍の大軍を見て弱気になった曹操は官渡城を捨て、許に退却しようとします。
荀彧はこの計画を知り、曹操に対して激励し、戦を続けるように伝えます。
この激励により気持ちに余裕を取り戻した曹操は、
袁紹軍と戦い続けることを決意します。
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優秀な人材を多く推挙
さらに荀彧は多くの優秀な人材を曹操に推挙しております。
彼が推挙した人材は、曹操軍の軍師として、いくつもの戦に適切な
関中の豪族たちをしっかりと治め、内政に尽力した鐘繇(しょうよう)など
を曹操に仕えさせます。
彼らは曹操を支え、魏の建国に大いに尽力します。
曹操は荀彧に「君が推挙した人材は素晴らしい。」と褒めます。
こうして曹操と荀彧の関係は良好でありました。
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荊州討伐の策を献策
曹操は河北の戦いに勝利した後、
荀彧に「今、河北を統一し、我が国の領土は天下の半分を手に入れることになった。
私は今荊州を領土に加えようと思うのだが、あまり時間をかけたくない。
何かいい策はないだろうか」と相談を持ち掛けます。
すると彼は「我が領土で荊州の国境に近い、宛(えん)に大軍を進めれば、
荊州の君主は戦を知らず臆病者であるため、降伏するに違いありません。」と
進言。
曹操は荀彧の進言を採用し、宛に大軍を進駐させると、
荊州の君主である劉琮(りゅうそう)は国を挙げて降伏します。
曹操はこうして荊州を有することになり、天下の半分以上が領土となります。
赤壁での大敗北
曹操は順調に天下統一に近づいていきます。
だが彼の天下統一事業に孫権(そんけん)と劉備(りゅうび)が連合して立ちはだかります。
曹操軍は15万に対し、孫と劉の連合軍は総勢4・5万という少なさです。
しかし孫・劉の連合軍は、曹操軍に真正面から攻めず、
偽降(ぎこう)と火計を用いて攻めます。
曹操は孫権軍の火計を受け、大敗北。
この敗北により曹操軍は荊州の半分を失い、兵を多く失うことになり、
天下統一が遠ざかることになります。
魏公就任に反対
赤壁の戦いから3年後、曹操家臣の文官達は天下の半分以上平定した
曹操の功績を天下に顕かにするため、彼を魏公に進めようと画策。
荀彧は曹操に「群臣達が殿を魏公の位に進めようと考えて色々な画策をしております。
殿は漢の世を正すため、漢の皇帝を推戴して天下平定に邁進していたはず。
今ここで魏公の位に進めば、天下の人達は殿が漢の皇帝から皇位を奪い、
皇帝になろうと考えていると思うでしょう。
それはなぜか、公位の次の爵位は王です。
そして王の次の爵位は皇帝です。
もし公の位に着いたらすぐに群臣は殿を王の位に進ませ、皇帝の位に就かせようと
動き出すでしょう。
殿は漢の忠臣として立ち上がった当初の目的を忘れてはなりません。」と
反対します。
曹操は荀彧の反対意見を一度は受け入れます。
軍を慰問する
曹操は荀彧に魏公就任を反対された年、孫権討伐に出陣。
曹操は荀彧に自分の出身地である譙(しょう)に駐屯している軍を慰問した後、
合流するよう命令します。
荀彧は曹操の命令を受け譙へ向かいます。
彼は譙に着くと曹操の息子である曹丕(そうひ)と楽しく色々なことを語り合い、
楽しいひと時を過ごします。
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寿春で亡くなる
荀彧は譙を後にすると曹操の軍勢の後を追い、濡須(じゅす)へ向かいます。
しかし濡須へ向かう途中でいきなり病にかかり、
寿春(じゅしゅん)で養生します。
荀彧は寿春で養生に努めていたのですが、病は快方に向かわず、亡くなります。
【次のページに続きます】