生まれながらに帝王を補佐する王佐の才を持つと評された荀彧文若(じゅんいく・ぶんじゃく)。曹操(そうそう)に「我が子房」とまで言われた彼は、西暦212年、曹操が魏公に昇進する直前に病死します。
その奇妙なタイミングの悪さから荀彧は曹操の魏公昇進を
「漢王朝を衰退させ滅ぼす行為」と考えて反対し、曹操との間に根深い確執が生まれたと言われ、三国志演義の空箱の故事のように曹操が不要になった荀彧を毒殺させたという風説が流れました。しかし、それは本当なのでしょうか?魏書 荀彧伝を読みながら、疑惑の真相を追ってみましょう。
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荀彧は曹操の魏公就任を反対していたのか?
荀彧は、叔父の荀爽(じゅんそう)が後漢の司空になったという程の名門です。大宦官、曹騰(そうとう)の孫という、出世競争の世界では何の自慢にもならない上に、妨げにさえ成りうる血筋の曹操とは雲泥の家柄の差と言えるでしょう。
その事から、荀彧は後漢王朝に誇りを持っていて、また自身も、献帝の侍中という立場でもあった事から、曹操の魏公昇進を、将来の魏王朝建国の伏線として捉えて、これに反対したという筋書きが語られています。その有名な文章が、董承(とうしょう)等が曹操の長年の功績を顕彰するために九錫(しゃく)を与えるべしと荀彧に内諾を求めた時のこの部分です。
※ちなみに九錫とは、皇帝が使用している9種類のレアアイテムと同じモノを贈られるという事で、歴史上、限られた人物しか受けていない特典の意味。
原文:彧以為太祖本興義兵以匡朝寧國、秉忠貞之誠、守退讓之實 君子愛人以德、不宜如此
意味としては、以下のようになります。
「太祖(曹操の事)は元々、天下の乱れに義憤を感じて、義兵を起こして国を安定させ、漢室に仕える気持ちは篤く、もって謙虚であり分際を知る人である。君子というのは身分ではない、恩愛、徳により人を愛するものだ。それが、九錫を与えて顕彰など相応しくない・・」
なるほど、この文章を見る限り、いかにも荀彧は曹操の魏公昇進を嫌がっているように感じます。しかし、この頃より少し時を遡ると、また事態は変化するのです。
荀彧は、曹操が九州を制定しようとした時には時期尚早で反対した・・
西暦204年、曹操は、袁家(えんけ)の本拠地であった鄴(ぎょう)を陥落させ冀州(きしゅう)を領有しました。弱小だった曹操が北の袁家を圧倒した瞬間ですが、この時に家臣の中に、
「古の九州を復活させてはいかがでしょうか?そうすれば、冀州の範囲は広大になります」と助言するものがいました。
九州とは、古の時代の中華の分割の方法でした。三国志の時代には13州でしたから、これを9州にすると、冀州の範囲が巨大になり、曹操は領地を労せずして拡大するという事になり、大いに乗り気でした。ところが、これに荀彧は反対します。
「今、殿はようやく冀州を平定したばかりだと言うのに、九州を復活させるのは、得策ではありません。もし、九州を復活させると、河東(かとう)、馮翊(ふうひょう)、扶風(ちっぷう)、西河(さいが)、幽州(ゆうしゅう)、幷州(へいしゅう)は冀州の範囲になりますが、これらの多くは、いまだ我が軍の勢力にはありません。そうなると、ようやく平定した冀州に再び、軍馬を走らせる事になり、ようやく冀州を平定した意味が消えます。
それに、これらの地を平定するのに、時間を割けばやっと北に追い払った袁尚(えんしょう)や袁熙(えんき)は息を吹き返してしまいますぞ」曹操は、理路整然とした荀彧の説得で、九州を制定するのは、現時点では、ぬか喜びだと悟り、以後、九州の話をしなくなります。曹操、かなりおっちょこちょいですね。
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九州の制定は、天子の成すべき事だが、荀彧は反対していない・・
そもそも、九州を制定するのは、時の天子の仕事だとされています。それを臣下に過ぎない曹操が勝手に制定しようなどというのは、重大な越権行為であると言えるのです。
本当に荀彧が、漢室に忠実な臣であれば、曹操が九州を制定すると口にした時点で、帝に対して不忠!!と言わないといけません。
しかし現実には、荀彧は、そんな否定はせず、、冀州を拡大すると、攻めないといけない土地が増えて、ようやく平定したのが無意味になりますよ。としか、言っていないわけです。つまり、そのような悪条件がないなら、荀彧は、曹操が九州を制定するぞ、と宣言したとしても、、「あ!いーっすね、、自分も頃合いだと思いまス」としか言わなかったのではないかと思います。
荀彧が曹操の魏公就任に反対した理由も時期尚早だった
この九州制定のいきさつを踏まえて、荀彧がどうして、曹操の魏公昇進を反対したかを考えると、つまり、荀彧は、曹操の魏公昇進自体を反対したのではなく、九州制定と同様に、「まだそれは、早いよぉ~」と言う意思表示では無かったのではと思えるのです。
事実、曹操は、儒教イデオロギーに真っ向から反する唯才令(いさいれい)などを発布して、儒者のテリトリーから人材推挙の権限を取り上げるなどし後漢王朝において、隠然たる勢力を持ち続ける、地方に割拠する名士・豪族から反感をかっていました。
曹操の生前、魏王就任あたりから、魏楓(ぎふう)のように関羽に呼応して、鄴で反乱を起こし、曹操を打倒して、儒者の天下を取り戻そうというクーデターも起きていたりするのです。その状況で、魏公、そして魏王と歩みを進めると、魏と、儒者の名士達との対立は決定的になり、曹操は求心力を失い早い段階で、滅亡するのではないか?荀彧は、それを考え、早すぎる曹操の魏公就任に、難色を示したのでしょう。
そう考えて再び、荀彧の言い分を見ると・・
さて、そういう事を踏まえて、曹操の魏公昇進に反対したらしい荀彧の発言を見てみると、
「太祖(曹操の事)は元々、天下の乱れに義憤を感じて、義兵を起こして国を安定させ、漢室に仕える気持ちは篤く、もって謙虚であり分際を知る人である。君子というのは身分ではない、恩愛、徳により人を愛するものだ。それが、九錫を与えて顕彰など相応しくない・・」
最後の二行にこそ、荀彧の本心があり、
「殿!まだ天下に恩愛を施し、有徳者として振る舞う段階ですぞ、魏公などという権威にこだわるのは、時期尚早ですぞ!」という気持ちだったのではないでしょうか?
荀彧の危惧は曹操の死後に的中してしまう。
しかし、荀彧は、西暦212年、曹操が孫権とドンパチしている最中に病を得て急死してしまいます。享年は50歳、心中に悩みがあったとされますが、それは、すなわち、魏公の位に野心を隠さない、曹操の勇み足に対するものだったのではないでしょうか?
すでに九州制定の件で、荀彧の本心を知っている曹操も、荀彧が曹氏の天下を否定しているわけではないと理解しているので演義のように、荀彧に自殺を示唆する必要もありません。ただ、曹操は老齢でもあり自分が生きている間に、曹氏に後漢皇帝の一家臣ではない区切りをつけたいという思惑もあり、その点で、荀彧との間に溝はあったかも知れません。
荀彧が死んで、魏公昇進に表だって反対する人間が消えた事で、曹操は、翌年、西暦213年に魏公に昇進します。そして、西暦216年には魏王に封じられます。
事実、曹魏の天下は、曹操から数えて孫にあたる曹叡(そうえい)までで、後は、幼帝曹芳(そうほう)の後見になった曹爽(そうそう)が権勢を振るうようになり、曹爽の次には、司馬懿(しばい)によるクーデター、高平陵の変により曹魏の天下は司馬氏奪われる事になります。
司馬氏の専横には曹氏の血縁者や、曹操以来の重臣達によるクーデターが何度も起きますが、曹魏は儒教官僚の支持をかなり昔に失っていた事もあり、司馬師、司馬昭に次々と鎮圧されています。これも、荀彧の危惧が的中したと言えないでしょうか?
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三国志ライターkawausoの独り言
曹操と荀彧の関係は最後まで良好でしたが、老齢に達した曹操が、魏公という形で権威を得たがるのを、荀彧が止めた部分で微妙なしこりが発生してしまいました。とはいえ、前述したとおり、荀彧は曹操が魏公になる事自体に反対ではなく、まだ、人心が曹氏に懐いていない段階での魏公昇進に反対したのです。
もし、荀彧がもう少し生きていれば、九州制定の時と同じように、理路整然と曹操に魏公昇進のデメリットを説いて、必ず、魏公昇進を断念させたでしょう。本日も三国志の話題をご馳走様でした。
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