126話:孔明第二次北伐の開始、陳倉攻略戦

2016年7月27日


 

曹休

 

街亭(がいてい)を失陥し、敗北に終わった第一次北伐。

しかし、直後に、石亭(せきてい)で曹休(そうきゅう)の率いる10万の大軍が

呉の陸遜(りくそん)に敗れた事で、再び、魏の国力が低下します。

この機に乗じて、孔明(こうめい)は第二次北伐を開始しますが、

魏将、郝昭(かくしょう)が守る小さな城、陳倉(ちんそう)を巡って、

大激戦が発生してしまいます。

 

前回記事:125話:何で孔明や姜維の北伐は街亭や祁山にこだわったの?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孔明、30万の大軍を擁して陳倉に襲いかかる

基礎知識 馬謖05 孔明

 

街亭を失い、愛弟子・馬謖(ばしょく)を処刑して、

敗戦の責任を取った諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)。

意気消沈していた蜀に、呉の陸遜が魏の曹休を破ったという朗報が入ります。

10万という大軍を破られた魏は、軍の建て直しに時間を要すると踏んだ

孔明は直ちに、第二次北伐の軍勢を起しました。

 

今度は30万という大軍を起し、再び、一番の迂回ルートを進んで、

祁山の途中にある陳倉城を包囲したのです。

 

以前から名城だった陳倉城

司馬朗 董卓

 

陳倉城は、以前から名城として有名でした、後漢、霊帝の時代、

涼州の賊、王国(おうこく)が手勢を率いてこれを包囲した時の事です。

朝廷は、包囲を解こうと、皇甫嵩(こうほすう)董卓(とうたく)という

二将軍に2万の軍勢を与え救援に出発させました。

 

陳倉は小城でしたから、今にも落ちるのではと、董卓は焦っていました。

 

董卓「おがっ!もう少し急ぐっぺ!!

ちんたら進んでは、陳倉が落ちてしまうずら!」

 

しかし、陳倉の防御力を知る皇甫嵩は余裕があります。

 

皇甫嵩「はっはっは、追い詰められているのは賊の方だ、、

陳倉は簡単には落ちんよ。」

 

結局、皇甫嵩の見通し通り、王国は陳倉を落す事が出来ませんでした。

並の指揮官が指揮してもこれですから、ここを名将が守ると、

攻める側には厄介な事が想像できました。

 

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無名だが、武勇に秀でる郝昭が陳倉を守る

 

その陳倉を守るのは、郝昭(かくしょう)という武将でした。

曹操(そうそう)の時代から武勇を誇り、手柄を立てていたと言いますから、

かなりのベテランですが、大きな手柄には恵まれず、

小さな陳倉城を守る指揮官の地位にありました。

 

しかし、守るに鉄壁の陳倉に歴戦の強者がいるのは、

魏にとっては、天の配剤というべき幸運でした。

 

たった3千程度(正史では1000人)の兵力しかないにも関わらず、

郝昭は、孔明の再三に渡る降伏勧告を拒否、

城を枕に討ち死にする決意を固めていたのです。

 

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孔明、力攻めに方針変更するが・・

韓信vs孔明07

 

孔明は、遂に、もっとも不利な城攻めに着手します。

そこで 雲梯(うんてい)車と呼ばれるハシゴ車を使い、城壁によじ登ろうとしますが

郝昭は、これに火を放って、全て焼き払います。

次に孔明は衝車(しょうしゃ)という、城壁を破懐する重い車を突進させますが、

これも、城壁から石を投げる郝昭軍の攻撃で破懐されました。

 

その後も孔明は、地下道を掘ったり、城壁を超えるような

櫓(やぐら)を組んだりして、城内に入り込もうとしますが、

全ては、無駄な努力となりました。

 

死闘は20日余り続きますが一向に、城が落ちる気配はありません。

孔明は陳倉にあまりこだわるべきではないという姜維(きょうい)の

意見を入れ、祁山(きざん)に向かって進軍していきます。

 

郝昭死去し、姜維が陳倉を得る

姜維

 

蜀軍が退却した後、郝昭は、極度の緊張に耐えられなくなったのか、

倒れ、病に伏せてしまい、そのまま病死してしまいます。

 

それを知った孔明は、急いで姜維を派遣して、陳倉を攻撃、

郝昭を失った城は、成す術なく降伏しました。

魏の曹真の軍は、陳倉に到着しましたが、配下の王双を魏延に斬られてしまい

怒りを抑えながら成す術なく、撤退してしまいます。

 

孔明も、曹真の大軍と対峙して持久戦をする不利を悟り、

陣を解いて退却していきました。

この後に、曹真は体調を崩し、しばらく後に憤死してしまうのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

三国志演義では、郝昭の病死の後、姜維を派遣して陳倉を落した

という事になっていますが、事実は郝昭は最期まで城を守っています。

これは三国志演義だけのフィクションなのです。

祁山(ぎざん)の周辺では、様々な計略が使われ、

曹真が孔明に翻弄されるように、

描かれていますが、これもフィクションです。

 

ぶっちゃけてしまうと、

孔明は攻城下手ではないよ!

陳倉城は、郝昭が名将だったから落ちないだけで

死去すると簡単に落ちるんだよ。

そして、曹真も、これだけ翻弄されるんだよ!

 

と言いたいが為に加えられた逸話なのです。

実際に郝昭は、陳倉の戦いの後、僅かな間に病死しています。

この部分を少しずらして、演義のライター達は、一応、

陳倉城は落ちたという事にしたのでしょう。

 

ただ、孔明の名誉の為に言うと、陳倉は昔から知られる名城であり

それに加え、これまた、不屈の名将である郝昭が守っていた

というのが不運といえば不運でしたね。

 

次回記事:127話:迫る第四次北伐と蜀の抱える二つの問題点

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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