通常の手段では、追い落とすのが不可能なライバルが登場した時に、
しばしば使用される手段が暗殺です。
中国の歴史、三国志時代に限っても無数の暗殺がなされ、成功、失敗に関わらず
様々なドラマが展開される事になりました。
しかし、暗殺は権力者であれば、だれでも遭難する恐れがある為に評価されず
歴史の闇に葬られるのが殆どです。
そこで、はじさんでは歴史の闇に消えた暗殺者にスポットを当て、
全く、違う視点から三国志を斬ってみようと思います。
この記事の目次
後漢王朝 滅亡のプレリュード 何進暗殺者 畢嵐・段珪
何進(かしん)は、妹が霊帝の妃であり、自身も大将軍、外戚として権力を奮いました。
そんな何進は、袁紹(えんしょう)達、表の官僚達と仲が良く政治を牛耳る宦官、
十常侍を滅ぼそうという計画を立てていましたが、グズグズしている間に
先手を打たれ宮中で斬殺されます、その時に兵を集めて何進を切り刻んだのが
宦官の畢嵐(ひつらん)と段珪(だんけい)でした。
しかし、何進暗殺は、袁紹の暴走を招き、宮中に乱入した
袁紹・袁術(えんじゅつ)の手勢により、宦官は皆殺しという運命を辿ります。
畢嵐と段珪は、十常侍の親玉、張譲(ちょうじょう)と共に帝を連れて逃げますが、
董卓(とうたく)軍と遭遇してついに逃げ切れず河に身を投げて死亡しました。
この二人の暗殺者により洛陽は大混乱する事になり、
董卓の暴政のお膳立てが整った事を考えると、後漢の滅亡の前奏曲を
奏でた二名と言えるでしょう。
董卓を殺し群雄割拠の時代を招く 暗殺者 呂布
多くの場合、暗殺者の名前が記録に残るような事は、成功しても失敗しても
あまり多くありませんが、董卓を暗殺した呂布(りょふ)は暗殺によって賞賛され、
名声を高めたという点で稀有なケースでしょう。
元々、養父の丁原(ていげん)を欲の為に斬り、董卓に寝返った呂布ですが、
感情の行き違いや、董卓の侍女と呂布が密通するというような不義があり
いつ事実がバレて董卓に殺されるかと怯えるようになります。
そこに、董卓の排除を狙っていた王允(おういん)が近づき、
董卓の暗殺を囁いたのですが董卓の暴政が、あまりに酷かった為に
養父を殺したという呂布の不義理は問題にされず、
むしろ、暴君を討った英雄という評判が高くなります。
しかし、王允と呂布の天下も短期間に終わり、董卓の配下の
李傕(りかく)郭汜(かくし)が長安を落とすと、再び漢の天下は失われます。
その後、遷都の影響もあり東部の軍閥には漢の威光は及ばなくなり、
群雄割拠は促進されるのです。
小覇王の野望を挫いた 暗殺者の矢 許貢の残党
孫策(そんさく)は、一度は没落した父、孫堅(そんけん)の偉業を継いで
長江の南で奮戦して江東と江南に呉の拠点を築いた人物です。
ところが、あまりに急いだので、敵を無残に滅ぼす事が多く、多くの恨みを買います。
また、孫策は恨みを受けているという自覚にとぼしく単身で狩りに出るなど
無防備な点があり、それが暗殺を引き寄せてしまいました。
かつて、許貢(きょこう)は、曹操に対して孫策を警戒するようにという
書簡を送りそれを知った孫策に咎められ絞首刑に処されました。
許貢は嵌められたという説もあり、それを恨んだ許貢の残党が、単身で狩りを
していた孫策に数名で襲い掛かり、1本の矢が孫策の頬を貫きました。
孫策は賊を斬り伏せて、難を逃れますが頬の傷は深く、それが原因で
感染症を引きおこし病死したとされています。
もし、孫策の死が無ければ、周瑜(しゅうゆ)と魯粛(ろしゅく)は
変わらず重用されたでしょうから劉備(りゅうび)との同盟はなくなり、
赤壁の戦いは違った展開を見せたかも知れません。
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曹操を慌てさせた 無数の弩の攻撃 審配
曹操(そうそう)は、その生涯で幾度も死線を潜り抜けていますが、
その中でも、204年の鄴における審配(しんぱい)による暗殺は
かなり危なかった事の一つです。
袁尚(えんしょう)の命令で鄴を守る審配は、曹操が陣営を出て
単騎で、鄴の城壁を偵察する情報を掴んで、密かに大量の弩兵を
配置して、曹操を暗殺しようとします。
しかし、悪運の強い曹操を殺す事は出来ず、暗殺は失敗しました。
ところが曹操にとっては、その弩兵による攻撃は脅威だったらしく、
鄴が陥落した後
「先日、わしが城を包囲した時、よくも大量の弩を馳走してくれたな!」
と脅しを掛けると、審配は「いかにも、弩の少なかったのが残念です」と
言い返しています。
曹操は、鄴を長期に渡って守った審配を評価し罪を許し配下に加えようとしますが、
審配は袁尚への忠義を貫いたのでやむなく処刑しました。
まさに、袁紹の死後、曹操に一矢報いた人物と言えるでしょう。
費禕を刺殺し、姜維の暴走の契機を造る 郭循
郭循(かくじゅん)は、知らない人の方が多いかも知れません。
涼州の人士ですが、徳行に優れ、周囲の尊敬を得ていたようです。
しかし、蜀に仕える事を潔しとせず、左将軍に任じられた後も、
常々、劉禅(りゅうぜん)の命を狙い、帝の前に進みでては
制止されるという事を繰り返していたようです。
そこで、郭循は、矛先を変え、蜀の第一の実力者ながら、
降将とも、わけ隔てなくつき合う費禕(ひい)に接近していきました。
西暦253年、郭循は大将軍府を開き、魏を討伐しようと軍を率いていた
費禕に酒宴で近づき、油断した所を刺し殺します。
もちろん、郭循も殺されますが、後の祭りでした。
これにより、軍事と内政両面に睨みを効かす人材は蜀から消えていきます。
費禕を継いだ陳祇(ちんぎ)は北伐容認論者であり、
外では姜維(きょうい)が軍権を握り、北伐を繰り返すようになり、
蜀の国力は急速に衰えていきます。
帝殺しの汚名を押しつけられた無念の暗殺者 成済
暗殺者の大半は身を賭して、或いは法外な報酬と引き換えに
暗殺を行いますが成済(せいせい)に関しては、どちらも違います。
彼は、嫌々ながら、上司の許可を信じて魏帝の曹髦(そうぼう)を暗殺したのです。
曹髦は、即位したものの司馬昭(しばしょう)の操り人形であり、
西暦260年には、実権を司馬昭から取り戻そうと数百名の召使いを率いて決起し、
司馬昭の屋敷を襲いますが、情報は密告によって漏れていて、すでに司馬昭の
側近、賈充(かじゅう)が兵を率いて待機していました。
しかし、曹髦は構わず突っ込み、また兵士も帝を傷つける事を恐れて、
側に寄れなかったので、賈充は、太子舎人の成済を呼びつけて殺すように命じます。
成済は躊躇しますが、「後は任せろ」という賈充を信じて、戈を持って、
曹髦に近づき、背中を貫通する程の一撃を加えて暗殺しました。
ですが、賈充の約束は守られず、成済は単独犯として弾劾され死刑になり
無実を叫んで宮殿の屋根に上った所を射殺されました。
三国志ライターkawausoの独り言
いかがだったでしょうか?三国志を影で動かした暗殺者の歴史、
歴史上、有名な暗殺、無名な暗殺、暗殺者の意に沿わない暗殺など、
暗殺にも様々なケースがありますが、いずれも、その背景を見ると、
興味深いものがありますね。
本日も三国志の話題をご馳走様です。
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