以前、kawausoは虎豹騎(こひょうき)や虎士(こし)、
赤甲兵(せきこうへい)のような個別の名前がついた部隊を紹介し
記事末の独り言で、
「呉には、個別名を冠した部隊が見当たらないので、
ご存じの方は情報を下さい」と書きました。
すると、読者様から呉には、無難軍というのがあったという情報を頂きました。
そこから調べていくと、無難(ぶなん)軍ばかりではなく、解煩(かいはん)、
敢死(かんし)という、いかにも呉っぽいネーミングの部隊名が出てきました。
怒りの劉備を防ぐ為に造られた解煩督
しかし、呉の部隊の名前は、虎豹騎や赤甲兵というカッコイイ
外面を印象づける魏や蜀のケースとも異なり、かなり異質ですね・・
無難、解煩、敢死って、無難は兎も角、後の二つは、
「見よ!俺達の生きザマ!」的な内面が滲みでる名前です。
呉の呂蒙(りょもう)に殺された事で怒り、呉に侵攻した夷陵の戦いの時に
造られたようです。
この頃、大軍でやってくる劉備に対して兵が足りなかったので、
孫権(そんけん)の命令で、胡綜(こそう)という人物によって徴兵されました。
解煩督の督について、あくまでもザックリ説明しますと、督は、
ある程度、独自の判断で兵を動かせる独立した兵団の指揮官で、
一定の地域ごとに区割りがされ時代の有力な武将が任命されました。
推測、解煩督とは、仏教徒で組織された兵団・・
呉は支配地の周辺に異民族がいて開拓と異民族討伐がセットなので、
督の自由裁量を認める必要があり、割合によく督が出てきます。
解煩督とは、どんな部隊なのか名前からは窺い知れませんが、
もしかしたら、煩という仏教臭い漢字から考えると、
呉の国内の仏教徒を組織して編成した部隊かも知れません。
呉の地域は中国でも特に仏教が根付くのが早く、
陶謙(とうけん)の配下であった笮融(さくゆう)は仏教に目をつけて
信徒を纏め食糧や酒を振る舞って宗教兵団を造り上げています。
古くは孫堅(そんけん)が江東の地域で暴れ回る黄巾賊もどきの宗教兵団を退治して
声望を集めましたが、或いは、孫権はそれをヒントに、
共同生活をしていた仏教徒を集めて、解煩督として組織した
という事かも知れません。
もし、そうなら、その信仰から来る団結心は蜀軍の脅威だったでしょう。
呉に従って戦えば、煩悩から解き放たれる=死ぬ、
だから解煩隊、うーん、全滅しか連想できません。
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董襲、凌統、韓当等が率いた敢死督!
一方の敢死督も、これもうわぁな部隊名です。
勇敢に戦い死ぬ部隊で敢死隊ですから、もう生還できないっぽいです。
実際に、この敢死督を率いたのは、董襲(とうしゅう)と凌統(りょうとう)です。
董襲は、西暦212年からの第一次濡須口(じゅすこう)の戦いで、
渡河中に大風により五楼船が転覆してしまいますが、
撤退を勧める部下の進言を拒否。
さらに撤退する者は斬ると厳命して溺死しています。
誰も撤退できないという事は、敢死督も道連れでしょう・・
もう一人の凌統は、215年の合肥(がっぴ)の戦いで、
孫権(そんけん)を逃がす為に殿(しんがり)をつとめて奮戦し、
彼一人だけは鎧を着たまま河を泳いで生還しますが、
彼の部隊(恐らく敢死督)は、一人も帰ってこず涙を流した
という逸話があります。
敢死督も解煩督も、後に韓当(かんとう)が一万人編成で率いて、
丹陽の賊を討伐していますが、記述が本当なら、
解煩督はともかく、敢死督は三代目という事になります。
うーーん、三代目Jソウルブラザーズどころでは無い
気合の入りっぷりですね、敢死隊・・
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近衛兵になった無難督・・
さて、最期に残ったのが無難督ですが、こちらは近衛兵のようです。
あくまで推測ですが、「天子の難を無くする」で無難だと思います。
実際に、呉帝、孫亮(そんりょう)が独裁権力を振るう孫綝(そんちん)を排除しようと、
全尚(ぜんしょう)に謀った時に、左右の無難督と近衛兵を率いて
逆臣を討つと言っているので、近衛兵の可能性が高いでしょう。
そうなると、こちらは、選抜されたエリート部隊で、
どう考えても死を連想させられる敢死督よりは恵まれた境遇にある
と言えるかも知れません。
三国志ライターkawausoの独り言
解煩督についてさらに言うと、呉の孫権の最初の皇太子、
孫登(そんとう)の教育係は中央アジアの月氏出身の外国人で
仏教徒である支謙(しけん)という人物です。
彼は学識豊かな博士であり、在任中に梵歌(ぼんか)という
仏の教えを分りやすく教える歌なども造り庶民に布教したようですから、
当時の呉は、かなり仏教王国であり、孫権も仏教を避けなかった
という事が出来るでしょう。
なので敬虔な仏教徒により組織された戦闘部隊、
(殺生を禁じる仏教が人殺しというのもなんですが、、
日本にも僧兵という存在がありますから・・)
解煩督が組織されたというのは、案外、絵空事ではないと思います。
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