蜀漢(季漢)を建国した劉備(りゅうび)。蜀漢軍を率いて各地で戦った関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)、黄忠(こうちゅう)、馬超(ばちょう)、趙雲(ちょううん)ら、五虎将軍。そして劉備・五虎将軍亡き後、蜀漢を支え、曹魏と戦い続けた名宰相・諸葛孔明。三国志の蜀が好きな方は劉備、五虎将軍、諸葛孔明が亡くなったら、蜀漢(季漢)のその後のストーリーを知ることなく終えてしまう人も多いはず。
しかし蜀漢は劉備、五虎将軍、諸葛孔明亡き後も続いていきますが、あまり興味を持たなくなりどのような出来事があったのか知らない人が、多いのではないのでしょうか。そこで今回、はじめての三国志では、劉備・孔明・五虎将軍が居なくなった後の蜀漢の歴史をざっくりと記していきたいと思います。
この記事の目次
- 建興十二年(234年):諸葛孔明死す。孔明の後継者には蒋琬が選ばれる
- 延煕元年(238年):蒋琬大将軍へ昇格。年号も改変される
- 延煕七年(244年):王平の活躍によって襲来してきた魏軍を撃破!!「興勢の役」
- 延煕九年(246年):蒋琬死す。蒋琬の死後はスーパー文官・費禕が国政を担う
- 延煕十二年(249年):夏侯一族のあの人がやってくる「夏侯覇の寝返り」
- 延煕十五年(252年):三国志最後の英雄・孫権死す。
- 延煕十六年(253年):費禕が暗殺される。そして蜀漢はバラバラに・・・・
- 延煕十七年(254年):姜維蜀漢軍を率いて北伐「姜維の北伐その1」
- 延煕十八年(255年):再び北伐を敢行し大勝利ゲット!!「姜維の北伐その2」
- 延煕十九年(256年):鄧艾軍に敗北してしまい北伐失敗「段谷の戦い」
- 延煕二十年(257年):諸葛誕の反乱に乗じて北伐開始「姜維の戦いその2」
- 景耀五年(262年):最後の北伐へ
- 景耀六年(263年):大軍で魏軍が蜀漢へ侵攻。「蜀漢の滅亡」
- 三国志ライター黒田レンの独り言
建興十二年(234年):諸葛孔明死す。孔明の後継者には蒋琬が選ばれる
建興十二年。蜀漢の丞相・諸葛孔明(しょかつこうめい)は、五丈原で魏軍と対峙していた最中亡くなります。蜀漢軍は孔明の遺命により楊儀(ようぎ)が軍勢をまとめて撤退指揮を執ることに。
しかし楊儀と仲の悪い魏延が反乱を起こし、蜀漢軍が二つに割れてしまいます。楊儀が魏延を討ち取った事で、蜀漢はなんとか成都へ帰還。諸葛孔明の後継者は蒋琬(しょうえん)となります。蒋琬は尚書令となって国政を統括していくことになります。
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延煕元年(238年):蒋琬大将軍へ昇格。年号も改変される
建興の年号が延煕(えんき)と年号が改変。年号の改変に伴い、大赦が行われることになります。またこの年に孔明の後継者であった蒋琬(しょうえん)は、皇帝・劉禅から大将軍の位を与えられ、幕府を開くことを許され、蜀漢軍を率いて漢中に駐屯することに。
延煕七年(244年):王平の活躍によって襲来してきた魏軍を撃破!!「興勢の役」
延煕七年(244年)、魏軍が大軍を率いて蜀へ攻撃を行ってきます。蜀漢(季漢)は、魏軍が侵攻してくることを知ると、王平(おうへい)を迎撃軍の大将として蜀漢軍を指揮させます。王平は計略を駆使して魏軍を迎え撃ち大活躍。
魏軍は王平の軍勢を打ち破ることができないまま、費禕(ひい)の軍勢が援軍としてやってきてしまいます。魏軍は費禕の援軍がやってくると退却。蜀漢軍の大勝利で終わったこの戦いを後世「興勢の役」と呼ばれることになります。
延煕九年(246年):蒋琬死す。蒋琬の死後はスーパー文官・費禕が国政を担う
延煕九年(246年)。諸葛孔明の後継者として蜀漢の内政を担っていた蒋琬が亡くなります。蒋琬の後継者は興勢山の戦いが勃発した時、成都で友人と碁を打っていながら援軍の手配を素早く行い、蜀漢軍の総指揮を取ったスーパー文官・費禕が国政を担うことになります。
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延煕十二年(249年):夏侯一族のあの人がやってくる「夏侯覇の寝返り」
延煕十二年(249年)。蜀漢(季漢)は久しぶりに朗報に接することになります。その朗報とは魏の名族・夏侯一族の勇将である夏侯覇(かこうは)が、蜀漢へ降伏してきたのでした。夏侯覇の降伏は蜀漢にとって、魏の内情を知ることが出来ると共に、人材が払拭していた蜀漢にとって軍事面を担う人材を手に入れることができました。
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延煕十五年(252年):三国志最後の英雄・孫権死す。
延煕十五年(252年)。三国志最後の英雄であった呉の皇帝・孫権(そんけん)が亡くなります。この結果、三国の君主は全て新しい時代に突入することになり、魏・呉・蜀漢の三国の君主から英雄と呼ばれる人物がいなくなってしまいます。
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延煕十六年(253年):費禕が暗殺される。そして蜀漢はバラバラに・・・・
延煕一六年(253年)。丞相として国政を担っていた費禕が刺される大事件が発生。費禕はすぐに治療をされますが、治療の甲斐なく亡くなってしまいます。蜀漢(季漢)は費禕の死後、軍事を姜維(きょうい)が担うことに。
国内の事は成都にいる文官達が見ることになります。蜀漢は孔明、蒋琬、費禕の三人が国政と軍事の両方を見て、一体感を持っていましたが、費禕が亡くなったことによって、内政と軍事がバラバラになってしまうのでした。そしてここから姜維の無謀とも言える連戦が始まります。
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延煕十七年(254年):姜維蜀漢軍を率いて北伐「姜維の北伐その1」
姜維は軍勢を率いて北伐を開始。蜀漢軍は魏軍を打ち破ることに成功し、狄道などの三県の住民を蜀漢へ強制移住させます。
延煕十八年(255年):再び北伐を敢行し大勝利ゲット!!「姜維の北伐その2」
姜維は再び蜀漢軍を率いて狄道へ向けて出陣。魏の王経は蜀漢軍を迎え撃つため洮水の西へ出撃します。こうして両軍は洮水の西で激戦を行い、姜維率いる蜀漢軍が王経軍を打ち破って大勝利。王経は軍勢を率いて狄道城へ撤退していくのでした。そのまま姜維は狄道城を包囲するのですが、魏の名将・陳泰(ちんたい)率いる救援軍の攻撃を受けて敗北し、撤退することになります
延煕十九年(256年):鄧艾軍に敗北してしまい北伐失敗「段谷の戦い」
前年大勝利を手にした姜維は再び北伐を開始。この時姜維は蜀漢の将軍・胡済(こせい)と上邦(じょうけい)で合流する手はずを整えておりました。姜維は胡済の合流を待っておりましたが、姜維の北伐軍を迎撃するために出陣してきた鄧艾(とうがい)軍と戦う事に。
姜維は鄧艾軍にボコられて大敗北をしてしまったため、成都へ帰還することになり、北伐は失敗してしまいます。姜維はこの戦いで蜀漢軍に大損害を与え、責任を感じて大将軍の位を返上して官位の降格を望みます。劉禅は姜維の願いを受け入れて官位を降格。この戦いは後世「段谷(だんこくのたたかい)戦い」と呼ばれることになります。
延煕二十年(257年):諸葛誕の反乱に乗じて北伐開始「姜維の戦いその2」
延煕二十年(257年)。諸葛誕は司馬家に対して寿春城(じゅしゅんじょう)で挙兵。姜維は諸葛誕の反乱を聞いて北伐を決行。姜維は蜀漢軍を率いて、沈嶺北方にある城に蓄えられている兵糧を奪うため、進軍を開始。司馬望(しばぼう)と鄧艾は、姜維の軍勢が沈嶺北方の城へ向けて進軍していることを知り、沈嶺北方の防御体勢を固めます。
こうして両軍は沈嶺北方の城でにらみ合いを続けることに。翌年姜維は、諸葛誕の反乱が鎮圧されたことを知り、蜀漢軍を率いて撤退。両軍は戦うことなく終了するのでした。そんな中国内では劉禅が年号を新しく景耀(けいよう)へ改元しております。
景耀五年(262年):最後の北伐へ
姜維は数年の間、北伐を敢行する事なく内政に目を向けて国力の回復を図ります。姜維は国力がある程度回復された事を確認すると、再び軍勢を率いて北伐を開始。姜維率いる軍勢は侯和(こうわ)へ向けて出陣しますが、迎撃に出てきた鄧艾軍に敗北してしまうのでした。姜維は鄧艾軍に敗北すると成都へ撤退するのではなく沓中(とうちゅう)に駐屯。そして翌年蜀漢は運命の時を迎えることになります。
景耀六年(263年):大軍で魏軍が蜀漢へ侵攻。「蜀漢の滅亡」
魏軍は鍾会(しょうかい)を総大将として、攻撃を行わせ、鄧艾・諸葛緒(しょかつしょ)を別働隊として派遣。こうして蜀漢は魏軍の一斉攻撃を受けることになります。姜維は魏軍の攻撃を剣閣(けんかく)で防ぎます。
魏軍は剣閣に篭城した蜀漢軍を打ち破ることができずに日数だけが経過。しかし鄧艾は別働隊を率いて守りの薄い蜀の中部へ侵攻した事で、戦況が逆転。鄧艾は首都・成都の最終防衛ラインの綿竹(めんちく)を陥落。劉禅は譙周の進言と綿竹の陥落により、鄧艾へ降伏することに。
こうして蜀漢は滅亡することになります。姜維は劉禅の降伏を知ると剣閣を明け渡し、魏軍に降伏。その後姜維は鍾会を利用して蜀漢を復興させようとしますが、鍾会の反乱を鎮圧してきた魏軍の攻撃を受けた時に討ち死にしてしまうのでした。
三国志ライター黒田レンの独り言
劉備、孔明、五虎将軍の居ない蜀漢(季漢)の歴史を記してみました。上記の人々が居なくなって劇的な部分が少なく、面白い場面があんまりないからつまんないじゃんと思っている方が、多いかもしれません。
しかし孔明亡き後に活躍した蒋琬、費禕、姜維など多くの人物が活躍しています。レンは劉備、孔明、五虎将軍が居た時代よりは劇的部分にかけると思いますが、蒋琬、費禕、姜維などの人物が活躍した時代もそれなりに面白いと思います。これを見て気になった方ははじめての三国志にも蒋琬、費禕、姜維など蜀漢の後半で活躍した人物の記事が、たくさんありますからぜひ見てはいかがでしょうか。
参考 ちくま文芸文庫 正史三国志蜀書 井波律子著など
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