陳宮ってどんな人柄なんですか?正史『三国志』をもとに人柄を考察

2019年7月14日


 

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陳宮

 

陳宮(ちんきゅう)後漢(ごかん)(25年~220年)の政治家の1人です。最初は曹操(そうそう)に仕えていましたが、曹操と決別して呂布(りょふ)に仕えました。

 

 

曹操に捕らわれる高順、呂布、陳宮

 

最期は建安(けんあん)3年(198年)に呂布と一緒に捕縛されて殺されました。この陳宮はどのような人柄だったのでしょうか。今回は正史『三国志』と小説『三国志演義』をもとに陳宮の人柄を記述したいと思います。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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『三国志演義』の陳宮の人柄

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

陳宮は名前は有名なのですが、実は史料が少ないのです。史料が少ないのに、なぜ有名なのかと言うとやはり小説『三国志演義』の影響でした。

 

 

怒る曹操

 

 

『三国志演義』では董卓(とうたく)の暗殺に失敗した曹操が、逃げる途中で捕縛されます。その時に曹操を捕縛した役人が陳宮でした。陳宮は曹操が、後漢を復興させる器の人物と思って曹操を釈放します。そして、陳宮も曹操に仕える決意をします。

 

 

ブチ切れる曹操

 

 

ところが曹操は故郷に戻る途中で、うっかりと人殺しをしました。仕方なかったとはいえ、無実の人間を殺したので陳宮は曹操に失望しました。結局、陳宮は曹操の前から立ち去りました。

 

 

三国志の主人公の劉備

 

 

『三国志演義』の陳宮は後漢を復興しようとする正義の人物として描かれており、また劉備(りゅうび)諸葛亮(しょかつりょう)の以前の曹操のライバル的存在でもあります。

 

 

 



正史『三国志』の陳宮の人柄・・・・・・裏切り癖があったのか?

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

 

それでは、史実の陳宮はどのような人柄だったのでしょうか。史実の陳宮が曹操に仕えたのは、初平3年(192年)ごろです。

 

劉岱

 

 

兗州刺史を務めていた劉岱(りゅうたい)が、黄巾賊の残党に殺される事件が起きました。この時に、曹操を新任の兗州(えんしゅう)刺史として招いたのが陳宮や地元名士でした。

 

 

陶謙

 

 

黄巾賊の残党はすぐに鎮圧されましたが、今度は曹操の父の曹崇(そうすう)が徐州牧の陶謙(とうけん)の部下に殺されました。

 

 

袁紹VS袁術(犬猿)

 

この当時は袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)が天下を争っていた時代でした。まだ勢力が弱かった曹操は、この時期は袁紹系の人物であり、陶謙は袁術系の人物でした。陶謙の行いは曹操に対しての挑発行為です。

 

 

曹操

 

 

さて、曹操は父を殺された復讐として徐州に攻める計画を立てますが、陳宮や地元名士が反対します。しかし、曹操は聞き入れずに強硬出兵を行います。兗州の民を戦に巻き込まないために、陳宮は行くあてもなくウロウロしていた呂布を兗州にひき入て新しい主にしました。

 

曹操から水攻めを受ける呂布

 

 

呂布と曹操は1年ほど戦になりましたが、最終的には曹操が勝利して呂布も陳宮も兗州を追い出されました。兗州を追い出された呂布と陳宮は流浪の生活になります。そこで自分たちを保護しれくれるところを捜します。

 

陶謙と劉備

 

 

仕方ないので、今度は陶謙の後を継いで徐州牧となった劉備を頼ります。ところが、建安元年(196年)には劉備を徐州から追い出します。

 

反乱を起こす郝萌(かくぼう)と曹性

 

 

この時期に呂布の軍内で反乱が起きました。反乱の実行犯は郝朋(かくほう)という人物でした。

 

郝萌(かくぼう)と曹性をボコボコにする高順

 

 

この反乱は呂布配下の高順(こうじゅん)の活躍で鎮圧されました。

 

曹性

 

 

郝朋の軍から寝返った曹性(そうせい)を尋問すると、驚いたことに「首謀者は陳宮です」と言いました。

 

怒る陳宮

 

 

この時陳宮は、図星だったのか顔色が真っ赤だったそうです。

 

呂布

 

 

しかし、呂布は陳宮の罪を責めなかったようです。きっと読者の皆様は「?」が付くと思うかもしれませんが、陳宮の行うことは乱世では、特に珍しい光景ではありません。

 

丁原(ていげん)

 

 

例えば呂布は丁原(ていげん)董卓(とうたく)献帝(けんてい)袁術(えんじゅつ)袁紹(えんしょう)張楊(ちょうよう)の6人に仕えて独立しました。

 

愛馬に乗る張遼

 

 

(220年~265年)の張遼(ちょうりょう)は、丁原・董卓・呂布・曹操・曹丕(そうひ)の5人に仕えています。五代十国時代(907年~960年)の馮道(ふうどう)という人物は、11人の君主に仕えており、中国でも最高記録を持っています。

 

呂布に従う陳宮

 

 

乱世は様々な要因で色々な君主に仕えて、出世したりクビになったりします。また、裏切りもします。要するに陳宮の反乱計画は乱世においては全く珍しくない光景です。呂布が彼を責めなかったのは、そういうことです。

 

荀攸

 

 

陳宮の人柄を現すものとして荀攸(じゅんゆう)が次のような言葉を残しています。

 

荀攸

 

 

「智謀があるが決断が遅い」要するに優柔不断です。たぶん反乱計画が失敗したのは、これが原因ではないでしょうか。

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

 

以上が陳宮の人柄に関しての記事でした。陳宮は『三国志演義』の影響により名前が有名なのですが、史料が足りないので非常に調べにくいのが欠点です。そのため、史実の陳宮は行動に一貫性の無い人物として見えるのが難点です。

 

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呂布

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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