陳宮は後漢(25年~220年)の政治家の1人です。最初は曹操に仕えていましたが、曹操と決別して呂布に仕えました。
最期は建安3年(198年)に呂布と一緒に捕縛されて殺されました。この陳宮はどのような人柄だったのでしょうか。今回は正史『三国志』と小説『三国志演義』をもとに陳宮の人柄を記述したいと思います。
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『三国志演義』の陳宮の人柄
陳宮は名前は有名なのですが、実は史料が少ないのです。史料が少ないのに、なぜ有名なのかと言うとやはり小説『三国志演義』の影響でした。
『三国志演義』では董卓の暗殺に失敗した曹操が、逃げる途中で捕縛されます。その時に曹操を捕縛した役人が陳宮でした。陳宮は曹操が、後漢を復興させる器の人物と思って曹操を釈放します。そして、陳宮も曹操に仕える決意をします。
ところが曹操は故郷に戻る途中で、うっかりと人殺しをしました。仕方なかったとはいえ、無実の人間を殺したので陳宮は曹操に失望しました。結局、陳宮は曹操の前から立ち去りました。
『三国志演義』の陳宮は後漢を復興しようとする正義の人物として描かれており、また劉備や諸葛亮の以前の曹操のライバル的存在でもあります。
正史『三国志』の陳宮の人柄・・・・・・裏切り癖があったのか?
それでは、史実の陳宮はどのような人柄だったのでしょうか。史実の陳宮が曹操に仕えたのは、初平3年(192年)ごろです。
兗州刺史を務めていた劉岱が、黄巾賊の残党に殺される事件が起きました。この時に、曹操を新任の兗州刺史として招いたのが陳宮や地元名士でした。
黄巾賊の残党はすぐに鎮圧されましたが、今度は曹操の父の曹崇が徐州牧の陶謙の部下に殺されました。
この当時は袁紹と袁術が天下を争っていた時代でした。まだ勢力が弱かった曹操は、この時期は袁紹系の人物であり、陶謙は袁術系の人物でした。陶謙の行いは曹操に対しての挑発行為です。
さて、曹操は父を殺された復讐として徐州に攻める計画を立てますが、陳宮や地元名士が反対します。しかし、曹操は聞き入れずに強硬出兵を行います。兗州の民を戦に巻き込まないために、陳宮は行くあてもなくウロウロしていた呂布を兗州にひき入て新しい主にしました。
呂布と曹操は1年ほど戦になりましたが、最終的には曹操が勝利して呂布も陳宮も兗州を追い出されました。兗州を追い出された呂布と陳宮は流浪の生活になります。そこで自分たちを保護しれくれるところを捜します。
仕方ないので、今度は陶謙の後を継いで徐州牧となった劉備を頼ります。ところが、建安元年(196年)には劉備を徐州から追い出します。
この時期に呂布の軍内で反乱が起きました。反乱の実行犯は郝朋という人物でした。
この反乱は呂布配下の高順の活躍で鎮圧されました。
郝朋の軍から寝返った曹性を尋問すると、驚いたことに「首謀者は陳宮です」と言いました。
この時陳宮は、図星だったのか顔色が真っ赤だったそうです。
しかし、呂布は陳宮の罪を責めなかったようです。きっと読者の皆様は「?」が付くと思うかもしれませんが、陳宮の行うことは乱世では、特に珍しい光景ではありません。
例えば呂布は丁原・董卓・献帝・袁術・袁紹・張楊の6人に仕えて独立しました。
魏(220年~265年)の張遼は、丁原・董卓・呂布・曹操・曹丕の5人に仕えています。五代十国時代(907年~960年)の馮道という人物は、11人の君主に仕えており、中国でも最高記録を持っています。
乱世は様々な要因で色々な君主に仕えて、出世したりクビになったりします。また、裏切りもします。要するに陳宮の反乱計画は乱世においては全く珍しくない光景です。呂布が彼を責めなかったのは、そういうことです。
陳宮の人柄を現すものとして荀攸が次のような言葉を残しています。
「智謀があるが決断が遅い」要するに優柔不断です。たぶん反乱計画が失敗したのは、これが原因ではないでしょうか。
三国志ライター 晃の独り言
以上が陳宮の人柄に関しての記事でした。陳宮は『三国志演義』の影響により名前が有名なのですが、史料が足りないので非常に調べにくいのが欠点です。そのため、史実の陳宮は行動に一貫性の無い人物として見えるのが難点です。
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