陸遜の生涯を年齢で追ってみよう!


陸遜

 

陸遜(りくそん)は呉(222年~280年)の丞相です。呉郡の四姓(陸・顧・朱・張)の1つ陸氏の出身でした。

 

孫策、陸遜、顧邵、他

 

孫策(そんさく)の娘を娶っているので、孫権(そんけん)とは親戚関係に該当します。陸遜に関しては以前も解説したことがありますが、何歳の時にどのような事件に関わったのか解説していません。

 

そこで今回は陸遜が関わった事件に関して年齢も絡めて解説します。

※記事中の年齢は数え年です。

 

自称・皇帝
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誕生 1歳

 

陸遜は後漢(25年~220年)の光和6年(183年)に誕生しました。父親は陸駿(りくしゅん)。父の陸駿は早く亡くなったので本家の陸康(りくこう)が陸遜を引き取って養育してくれました。陸家は揚州で有力な一族であり、「朱家」・「顧家」・「張家」とも同格であったことから、「呉の四姓」と呼ばれています。

 


 

陸家壊滅の危機 13歳

陶謙

 

興平元年(194年)に袁術(えんじゅつ)の味方についていた徐州の陶謙(とうけん)が亡くなります。袁術は徐州に遠征するため兵糧を提供することを陸康に要求しました。

 

呉の勢力を率いる孫策

 

しかし陸康はその要求を断ります。怒った袁術は孫策(そんさく)に命じて陸康を攻撃しました。これには孫策もやる気満々で出陣します。孫策はかつて陸康に面会した時に、大して相手にもされなかったことから陸康を恨んでいたのです。

 

興平2年(195年)に陸家は壊滅的打撃を受けて一族は離散しました。陸遜は叔父の陸績(りくせき)と一緒に逃げて助かります。時に陸遜は13歳でした。


 

孫策の娘をめとる 34歳

ほっぺたに矢を受ける孫策

 

建安5年(200年)に孫策は暗殺されました。

 

呉の小覇王・孫策

 

孫策の政策・・・・・・特に知識人に対しての政策は中途半端であり、張昭(ちょうしょう)周瑜(しゅうゆ)といった全国に名が知れ渡った知識人には敬意を表するのですが、「呉郡の四姓」のように地元しか知られていない知識人は軽蔑していました。

 

孫策の弟の孫権はすぐに兄の政策を変えて、「呉郡の四姓」との和解に乗り出します。陸遜も建安8年(203年)に孫権に仕えます。その後は異民族の山越(さんえつ)の討伐で活躍して、功績が認められたので孫権から孫策の娘を与えられました。

 

陸遜

 

かつて、自分の家を壊滅寸前まで追いやった男の娘と結婚するとは陸遜の心中は複雑だったでしょう。

建安21年(216年)のことであり、陸遜はこの時34歳でした。


  

 

 

関羽討伐に従軍 37歳

関羽に手紙を送る陸遜

 

建安24年(219年)に孫権は曹操(そうそう)と共同で荊州の関羽(かんう)を攻撃しました。

 

呂蒙

 

この時、呉の全軍を担っていたのは呂蒙(りょもう)です。呂蒙は病気になった時に陸遜と話して彼に才能があることや無名であることから、孫権に対して自分の代理の将軍として推薦します。

 

関羽を討ち取る陸遜

 

陸遜は呂蒙の代理を任されると関羽に対して、ペコペコした態度をとりました。人を見下すクセがある関羽は、すっかり油断してしまい呉に対しての備えを怠ります。呂蒙・陸遜はその隙を突いて、関羽を討つことに成功します。

 

陸遜37歳。でもいまだに全国に名は知られていません。

 

全国デビュー 夷陵の戦い 41歳

陸遜

 

呉の黄武元年(222年)に関羽を討たれて怒った蜀(221年~263年)は呉に報復戦を仕掛けます。

有名な「夷陵の戦い」です。

 

呂蒙のお見舞いにかけつける陸遜

 

呂蒙はすでに亡くなっていたので陸遜が抜擢されました。ところが当時の呉には韓当(かんとう)徐盛(じょせい)朱然(しゅぜん)潘璋(はんしょう)などの古参の将軍がおり、陸遜の抜擢を認めていません。

 

また、孫権の親族に当たる孫桓(そんかん)が苦戦したので将軍たちは救援を陸遜に希望しますが、陸遜は「孫桓を信じよう」と言って救援には行く気無し。将軍たちは劉備への直接攻撃も提案しますが、陸遜は伏兵の可能性を心配して動かない。

 

イライラしながらも待ち続けた将軍たちですが、とうとう対陣していた蜀に疲労が見え始めます。そこを陸遜が火攻めを行って、蜀はあっと言う間に敗北。こうして呉は大勝利して、陸遜を侮っていた将軍たちも彼を認めました。

 

陸遜41歳。遅咲きの全国デビューです。

 

悲劇の二宮事件 63歳

 

呉の赤烏4年(241年)に皇太子の孫登(そんとう)が亡くなります。

 

次の皇太子に孫和(そんか)が立てられます。ところが孫権は孫和の異母弟の孫覇(そんは)を継がせたかった。孫覇は生まれた年も母も分かっていないことから、生まれが良くないと推測されます。

 

袁紹、袁尚、袁譚

 

袁紹(えんしょう)劉表(りゅうひょう)も自分の可愛がっている子を後継ぎにしたいと考えていましたが、まさか孫権までそんなアホなことを考えていたとは・・・・・・

 

この孫権の弱みにつけこんだのが娘の全公主(ぜんこうしゅ)。全公主は孫和の母と仲が悪いので、孫覇の味方について宮廷内を滅茶苦茶にします。

 

女の争いは、いつの時代も怖い・・・・・・

 

顧雍(こよう)の孫の顧譚(こたん)や張昭の息子の張休(ちょうきゅう)は、あまりにもひどい争いをするので「やめてください」と孫権に諫言するも、逆ギレした孫権によりベトナムまで流されます。

 

陸遜は嫡子の孫和を後継ぎにすることを主張しますが、孫権は耳を貸しません。また、陸遜に対しては面会謝絶、さらに詰問の手紙を送りつけて精神的に追い詰めます。ショックから精神を病んでしまい陸遜は憤死して果てます。

 

赤烏8年(245年) 陸遜 享年63歳でした。この事件は「二宮事件」と呼ばれており、最終的には孫和と孫覇をケンカ両成敗にして責任をとらせます。

お前が、責任をとれ孫権!

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が年齢で追っていく陸遜の生涯でした。筆者は正直な話を言いますと陸遜に関しては思い入れが無いですね・・・・・・ゲームでも陸遜は使用してなかったのです。なぜかと言うと昔のゲームの陸遜は、あまり強い印象がありません。大体ゴリ押しで倒した記憶があります。

 

だから最近、陸遜ブームなのは驚いてます。

 

※参考文献

・大川富士夫「孫呉政権と士大夫」(『立正大学文学部論叢』33 1969年)

・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)

 

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