三国サラリーマン趙雲?史実の趙雲は劉備の死後に出世した?

2019年8月21日


 

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五虎大将軍の趙雲

 

趙雲(ちょううん)は蜀(221年~263年)の将軍です。公孫瓚(こうそんさん)に従軍していましたが、その時に知り合った劉備(りゅうび)についていき亡くなるまで戦います。趙雲は正史『三国志』において、非常に事績が少ない人物なのです。

 

それはどういうことなのでしょうか?

 

裴松之(歴史作家)

 

実は一般に浸透している趙雲の事績のほとんどが、劉宋(420年~479年)の歴史家である裴松之(はいしょうし
)
が正史『三国志』に記した注なのです。そこで今回は正史『三国志』で陳寿(ちんじゅ
)
が記した趙雲の事績にまとをしぼって解説しようと思います。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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公孫瓚配下から劉備配下となる

趙雲と毛利勝永

 

趙雲は袁紹(えんしょう)が統治している冀州常山郡真定県の出身ですが、公孫瓚(こうそんさん)の配下となります。公孫瓚の配下となった経緯について陳寿は何も記していません。

 

劉備の下で働くと決めた趙雲

 

劉備との出会いについては、公孫瓚配下の田階が袁紹に攻められた時です。趙雲はその時、劉備と一緒に援軍として派遣されて以降は劉備の配下となります。初平3年(192年)頃です。

 

 

 

長坂で劉禅と甘夫人を助ける

劉表死す

 

建安13年(208年)に荊州の長官の劉表(りゅうひょう
)
が亡くなったことを契機に、曹操(そうそう)は荊州と呉を併呑しようと計画します。劉表の後を継いだ劉琮(りゅうそう)は一戦も交えずに降伏したので、劉備は民を連れて慌てて逃げだします。

 

三国志の主人公の劉備

 

ところが、長坂で追いつかれてしまい戦闘になります。逃げることに精一杯だった劉備は劉禅(りゅうぜん)・娘2人・妻の甘夫人を見捨てました。一方趙雲は、乱戦の中で劉禅と甘夫人(かんふじん)を救出して逃げ延びることに成功します。

 

リアル「三国無双」全開!!趙雲はこの時の功績により、「牙門将軍(がもんしょうぐん)」に任命されました。牙門将軍というのは位の低い将軍号です。趙雲の将軍としての人生は、この時から始まります。

 

 

関羽の存在で出世が出来なかった趙雲?

関羽の青銅像

 

その後、蜀平定の功績により、「翊軍将軍」となります。残念ながら、これも位の低い将軍号であり趙雲は働きの割には、あまり出世していません。

理由は関羽にあったと思われます。

 

関羽

 

関羽はプライドが高くて、蜀平定時期に加入した馬超がどんな人物か気になって諸葛亮に手紙で尋ねます。この時に諸葛亮は関羽のプライドを傷つけないように、「馬超は関羽さんには及びません」と大人の対応の返事をしました。喜んだ関羽はその返信の手紙をみんなに見せびらかしたそうです。

 

五虎大将軍の黄忠

 

また、黄忠(こうちゅう)を三品官の「後将軍」に任命する時も、関羽が納得しない可能性が高いと諸葛亮(しょかつりょう)は察して、劉備自ら関羽を説得した話もあります。このように趙雲が功績を立てても出世が出来なかったのは関羽の存在が大きかったからでしょう。

 

おそらく趙雲自身も遠慮していたのではないでしょうか・・・・・・

 

司馬昭の質問に回答する劉禅

 

劉備が亡くなり劉禅が即位した建興元年(223年)に、趙雲は「征南将軍」さらに「鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)」に昇進します。これらは二品官の将軍号であり、方面軍の司令官という役割を持っています。

 

建興元年(223年)と言えば劉備・関羽張飛(ちょうひ)馬超(ばちょう)黄忠(こうちゅう)といった蜀創業の人々は、すでに鬼籍に入られています。残っているのも趙雲・劉琰(りゅうえん)・諸葛亮・魏延(ぎえん)蔣琬(しょうえん)・・・・・・・・メジャーからマニアックな人々ばかり。

 

趙雲は残っている中でもかなりの古株なので自然と昇進しました。時間はかかったけど、ようやく長年の努力が報われたのです。趙雲はまさに、典型的サラリーマンと筆者は思います。

   

 

北伐で敗北して降格

北伐する孔明

 

建興6年(228年)に諸葛亮は(220年~265年)に最初の北伐を開始します。趙雲は鄧芝(とうし)と一緒に出陣して、魏の曹真(そうしん
)
を迎え撃ちます。ところが、蜀の先鋒の馬謖(ばしょく
)
が街亭で敗北したので北伐は失敗しました。

 

趙雲も曹真に負けますが、彼は軍をしっかりとまとめて大敗せずに引き返しました。これぞ歴戦の勇者!長年の経験です!

 

この戦で馬謖は敗戦の罪を問われ処刑となりますが、趙雲は降格処分だけで済みました。趙雲がその後、戦に出ることはありません。街亭の戦いの翌年、建興7(229年)に趙雲はこの世を去りました。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

今回、趙雲の出世話の話を出したのかというと、筆者を大学時代の恩師が、「趙雲が出世出来なかったのは、劉備に好かれていなかったからだよ」と言っていたことを記憶していたからです。

 

その恩師は「劉備の時代は大したレベルでもない将軍職だったのに、劉禅の時代になると急に出世しているから変でしょう」と笑いながら言ってました。

今回、調べて上記の結論に達しました。

 

これが恩師に読まれないことを祈ります(笑)

 

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