三国志ファンにはおなじみの言葉かもしれませんが、中国史には「禅譲」という概念があります。今回は、三国志の物語の最終版に登場する一大イベント、「曹奐から司馬炎への禅譲」をおさらいしてみましょう!
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この記事の目次
そもそも「禅譲」とは?
まず禅譲とは、皇帝の地位が、戦争やクーデターではなく、「平和的に先代から後代へと譲られること」です。もっと詳しく言うと、普通は帝位というものは親から子への世襲ですが、衰退している王朝の皇帝が、「私の子供たちには、どうも優秀な人間がいない。しかし部下の〇〇の一族は優秀な人材ぞろいだ。このさい思い切って皇帝の座を私の一族から部下の〇〇の一族に譲ってあげよう。私自身は家族とともに田舎にこもって政治活動からは引退することにしよう。王朝の名前も変えてしまうがよい」
と、英断をもって皇位を他家に渡してしまうことです。「禅譲」を受けた相手は、「いやいや、私には皇帝などはあまりにも責任が重く、恐れ多いです!」と最初は固辞するのも「おきまりの」パターンです。
「皇帝の位を君にあげるよ」
「いやいや、それは困ります」
「どうしても、君の一族に譲りたいのだ」
「困りますよ」
「いや、そこをなんとか」
「そうですか、どうしてもというなら、しかたありません、未熟者ではございますが、私がお引き受けしましょう」
というやりとりは、一種の礼儀としてやらなくてはいけない雰囲気があります。そんな「禅譲」の正式なプロセスによって、平和的に皇帝の位についた代表例の一人が、曹操の子孫である曹奐から皇帝の座を穏便に譲ってもらった、司馬炎なのです!と、ここで「ン?」と思った方も多いのではないでしょうか。
ありとあらゆる場で「簒奪」と書かれる司馬炎の皇位継承はどこまで「禅譲」だったのか?
というのも、司馬炎による晋王朝の誕生については、中国史上でどうも評判がよくない。司馬炎個人のみならず、司馬懿以降の「司馬一族の権力」となると、これはもう「親子三世代にわたって周到に計画された皇位簒奪である」という言い方をされるのが、相場となっています。
ところが司馬炎自身としては「いやあれは曹奐から禅譲された皇位だから」というのが、言い分のようです。ちなみにそもそもの「禅譲」というのは、三国志の時代よりもさらに古代の、いわゆる「堯舜の時代」として語られる伝説の聖王たちの時代からの概念として語られるものです。
「古代の人徳に溢れた王たちは、自分の一族の力が衰えてきたと考えると、きちんとけじめをつけて、自分の判断で平和的に他家に皇帝の座を譲っていた、古代の王たちは偉かった」というニュアンスで語られるものです。
当然、司馬炎が「あれは禅譲だった」と主張しているときも、「伝説の『堯舜の時代』と比較されても遜色ないような、礼儀にかなった、理想的な形で、皇帝の座を継承したのだ」というニュアンスを出したいのだと考えてよいでしょう。
司馬炎の皇位継承はどこまで平和的だったのか?場面を再現してみましょう!
そんな司馬炎が曹奐から皇位を譲ってもらったプロセスとは、どのようなものだったのでしょうか?さまざまな史書や民間の言い伝えを編集して完成した『三国志演義』に、この経緯が物語としてかなりキレイにまとめられています。それをもとに、プロセスを再現してみると、以下のようになります。
・ある日、司馬炎が部下の賈充と話をしていたときに、「そういえば曹一族の曹丕って、どうして皇帝になったんだっけ?」と、突然言い出した
・賈充が「あれは漢王朝から『禅譲』されたのですよ」と指摘した
・司馬炎が「曹丕が漢王朝から禅譲されたのなら、オレが禅譲されたっていいよね?」と唐突なことを言い出した
・賈充も「あなた様が禅譲されたと天下に宣言すれば、民衆もみんな大喜びするでしょう!」と煽った
・喜んだ司馬炎は、剣をもって(!)曹奐の部屋にズカズカ入っていった
・驚いた曹奐がとにかく謁見の場を作ると、やおら司馬炎は「魏王朝って誰のおかげでできたんだっけ?」と言い始めた
・例によって覇気のない曹奐は、「それは、あなたのお爺さんやお父様の尽力があってのことですよ」とおべっかを言った
・司馬炎は「それにしても陛下には、政治を論ずる頭もなければ、戦に出て武威を示す力もない。百に一つも才能はない。いっそ有能な人に禅譲してみるのはどうですか」とずけずけと言った
・傍にいた、曹奐の部下の張節というものが「それは曹奐様に失礼だろう!」と激怒した
・司馬炎はすかさず自分の部下に命じて、張節をこん棒でボコボコに殴って惨殺させた
・曹奐は泣き出して、「さっそく禅譲の儀式の準備をいたしましょう」となった
まとめ:曹奐を殺害しなかっただけでも司馬炎は「マシ」ともいえる
「どこが禅譲だよ!」とツッコミをいれたくなるのは私だけではないはず。なんというイヤな後味のエピソードでしょうか。
しかし司馬炎については確かに擁護できるところもあります。パターンとしては、こうやって「禅譲」をさせられた後の皇帝というのは、田舎に隠居した後に刺客が差し向けられ不審死するケースも「おおいにアリ」なはずなのですが、どうやら曹奐もその子供たちも、都に出てくることは禁止された模様ながら、地方に引っ込んで名士としてかなり安泰に暮らせたように見えるのです。
少なくとも謀殺や暗殺の記録は一切ない。そういえば司馬炎は、その後、なんだかんだ劉禅や孫晧も存命させてしまっています。存外、相手が貴人なら殺さないところのある司馬炎(張節あたりの身分には容赦ないとはいえ)。
三国志ライター YASHIROの独り言
この男は董卓あたりの強烈な人物と比較すれば、そうとうに「マシ」だったともいえるわけで、この司馬炎にさっさと「禅譲」をして引退をした曹奐は賢い選択をしたのかもしれませんね。あの世で曹操おじいちゃんは激怒しているかもしれませんが。