『三国志演義』で徐州を守っていた張飛は劉備から禁酒令が出ていたにも関わらず、「まあ、ちょっとだけ・・・・・・」という下心から飲んで酔っ払い、同僚や部下に暴力。
油断したところを呂布に攻撃されてしまい、徐州を追われててしまいました。張飛が酒好きだったという話は物語を面白くするためのフィクション。今回、お話するのは『三国志演義』の張飛のように「お酒」での失敗をした彭羕についての話です。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
この記事の目次
上から目線男 彭羕(ほうよう)にも
彭羕は広漢郡出身であり身長は192センチもある大男でした。「人をぞんざいに扱っていた」と史料に書かれているので、かなりの上から目線の男だったのでしょう。職場にいたら一緒に働きたくないタイプです。
ただし同郷の秦宓のことだけは尊敬しており、許靖に推薦していました。正史『三国志』の著者の陳寿によると秦宓は普段はバカのフリをしており、外交官として表に立つとその実力を発揮していたようです。
確かにそのような人物だったら尊敬に値します。しかし彭羕も秦宓のプラス面を学ぶことを考えなかったのでしょうか?
おそらく「生まれ持った性格だから無理!」と思っていたのでしょう。案の定、この性格が災いしたらしく、人々から悪口を言われます。「悪口」というよりも職務怠慢を報告されたのが正しいのではないかと推測されますけど・・・・・・
怒った劉璋は彭羕を髠刑にしました。髠刑は髪を切ってしまう刑罰であり、私の記事を何度か読んだことがある読者の皆様は知っていると思いますが、中国では屈辱的な刑罰と言われています。
髪を切ることは親からもらった体に傷を付けることなのです。ちなみに、正史『三国志』の著者である陳寿の父も街亭の戦いで馬謖に従軍して敗戦したことから、責任をとらされて、髠刑にされています。
龐統・劉備から信頼を得る彭ヨウ
建安17年(212年)に劉璋は五斗米道の張魯に対抗するために、劉備に援助を求めます。益州を奪いたかった劉備は劉璋の提案に賛成。間もなく劉備と劉璋の間で益州の覇権をめぐって争いが起こりました。これを聞いた彭 羕は早速、劉備のもとに再就職する決意を固めます。
この時点で法正は劉備のもとに投降していました。彼は彭 羕の知り合いです。彭 羕も法正を頼っていけば劉備と面会することは簡単でした。しかし、彭 羕はそれを行わずにある人物のもとに向かいます。
向かったのは龐統の陣営。ところが、彭羕は龐統と知り合いではありません。ましてや龐統は諸葛亮・諸葛瑾・劉表・龐徳公といった著名人と親戚関係。普通だったら話すことも出来ません。
分かりやすく例えるのなら、無職の人間が会社の役員にアポ無しで会いに行くレベルです・・・・・・
龐統の陣に到着した彭 羕でしたが、龐統は来客応対中でした。「待っておくよ」と言って、彭 羕は龐統のベッドに寝転ぶ始末。来客対応が終わると龐統は彭 羕に会いますが彼は「食事を出せ」と頼む始末。彭 羕が人をぞんざいに扱うのは本当のようです。
しかし、龐統は人を見抜く才能があったので文句1つ述べずに食事を出しました。それから二晩に渡り龐統と彭羕は語り合いました。その結果、龐統は彭 羕がただ者ではないと見抜きました。その後、彭 羕は法正を通じて劉備と面会。劉備も彭 羕がただ者ではないと気付き、すぐに抜擢しました。
酒の席での失敗が命取りになる彭羕
だが、彭 羕は周囲に対しての配慮が足りません。龐統・劉備に登用されたことを自慢するようになります。諸葛亮は彭 羕のことを良く思わなかったので劉備に対して、「彭 羕は野心家だから、大人しく仕えさせるのは難しい」とこっそりと忠告しました。
諸葛亮のことを信じていた劉備は、彭 羕を観察した結果、まさしくその通りの人物像だったので左遷することにしました。左遷された彭 羕は馬超と一緒に酒を飲みました。馬超は試しに、「あなたは中央で諸葛亮や法正と一緒に活躍する人材だ。どうして左遷されているんだ?」と尋ねました。
酔っぱらった彭 羕は勢いで「劉備はボケたんだよ。話にならない!」と叫びました。それどころか彭 羕は馬超に謀反まで持ちかけました。馬超は流浪の末に劉備に拾ってもらったのに、そんなものに巻き込まれたくありません。急いで劉備に密告。彭 羕は逮捕となりました。
逮捕された彭羕は獄中で諸葛亮で謝罪の手紙を送りましたが、そんなもので許されるはずがありません。とうとう死罪にされてしまいました。享年37歳。
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