曹操のライバルである袁紹は、様々な知識人を軍師として優遇していました。郭図・審配・逢紀・許攸・田豊・・・・・・他にもいますが、この辺りでストップしておきます。
沮授もその1人でした。彼は韓馥・袁紹の2人の主人に仕えますが、その才能を発揮出来ずに悲劇の生涯を終えました。沮授とはどんな人物だったのでしょうか?今回は沮授について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく解説しています。
この記事の目次
韓馥と袁紹の劉虞擁立計画
沮授は冀州の人であり若い時から権謀術数に優れており志も持っていました。生まれた年も字も不明です。
冀州の長官である韓馥に仕えました。これが沮授の運命を狂わせることになります。
初平2年(191年)に袁紹と韓馥は董卓が擁立している後漢(25年~220年)第14第皇帝の献帝に対抗するために漢王朝の末裔である劉虞を皇帝に推戴しようと計画しました。しかし、この計画は劉虞が拒否したり、袁術や曹操などの諸侯も不賛成であったので頓挫となります。
公孫瓚の冀州侵攻
さて、劉虞皇帝擁立計画が破綻して間もなく、公孫瓚と韓馥は戦闘になります。
結果は韓馥の敗北・・・・・・公孫瓚は暴政を行う董卓討伐を名目として冀州を通らせてほしいことを頼みます。だが、実際は冀州の占領が目的です。韓馥は自分では公孫瓚には勝てないと思いました。
一方、韓馥と同盟していた袁紹も董卓が長安まで撤退したので、これ以上の追撃は不可能と判断。そんな時に韓馥が公孫瓚に攻められていることを聞いてあることを閃きます。
袁紹の冀州無血占領計画と沮授の反論
袁紹は甥の高幹と部下の荀諶を派遣して韓馥を説得。兄か弟か不明ですが荀諶は荀彧と兄弟関係です。
高幹と荀諶は韓馥に対して冀州を袁紹に明け渡すことを提案。自分の力では冀州を守れないと感じた韓馥も賛成しました。しかし韓馥の部下である沮授は反対します。『後漢書』には彼の反対意見が掲載されています。
「冀州は兵士が100万いて、兵糧も備蓄されています。どうして人にやるのですか?」
ところが韓馥は、「私は昔、袁家で働いていた。それに才能は袁紹に及ばない。徳のある人物に位を譲るのは昔の人が尊重した態度だ」と全く沮授の意見に耳を傾けません。
韓馥と袁家のように昔の上司と部下の関係を専門用語で、「門生故吏」と言います。袁紹が自分の勢力拡大に使ったのは、この門生故吏でした。
話を戻します。沮授の意見に耳を傾けなかった韓馥は、袁紹に無血で領土を渡します。冀州に入った袁紹は沮授・審配・田豊などの韓馥配下を自分の配下に収めました。怖くなった韓馥は冀州から脱出して張邈がいる陳留まで逃げますが、その後自殺してしまいます。
沮授の天下平定プラン
韓馥がいなくなっても、沮授にマイナスな面はありません。むしろ、沮授は新しい主人である袁紹のもとで頑張ろうとします。そこで沮授は袁紹に自分の天下平定プラン披露しました。
「河北(冀州・青州・幽州・幷州)を制圧し、天下の英雄たちを従えます。100万の軍勢を従えて長安にいる皇帝を迎えして、(荒廃した)洛陽を復興する。その後、従わない諸侯を討伐します。これで大丈夫です」
このプランを聞いた袁紹は非常に喜びました。要するに以前の劉虞を無理に皇帝に擁立して董卓に対抗する計画よりも筋が通っているからでした。沮授の計画は早速、実行に移されます。
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