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戦下手な皇帝 曹丕を支えた張遼、凡庸な皇帝との絶妙な関係性に迫る

2021年11月2日


 

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敵を相手にして奮闘する張遼

 

曹操(そうそう)曹丕(そうひ)の二代に仕えた魏の名将・張遼(ちょうりょう)

 

皇帝に就任した曹丕

 

そんな張遼の主君であった曹丕はどうしても戦下手な皇帝というイメージがあり、凡庸な皇帝を懸命に支えた張遼の忠義に対する評価も高いです。今回は、そんな「凡庸な皇帝」と言われがちな曹丕とそれを支えた張遼の実像に迫っていきたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹丕は凡庸な皇帝なのか?

曹休と曹丕を可愛がる曹操

 

英雄曹操の息子にして、魏の初代皇帝となった曹丕にはあまりいいイメージがありません。

 

曹丕

 

特に、『三国志演義』での曹丕は蜀の諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)の北伐に対して苦戦しつづけ、呉に対する遠征でも大敗を喫し、これをきっかけに張遼を失っています。

 

三国志演義の作家 羅貫中

 

しかし、『三国志演義』はあくまでも羅貫中(らかんちゅう)の手による物語であり、史実をベースにしつつも多くの脚色が加えられています。では、正史における曹丕とは果たしてそのような凡庸な皇帝だったのでしょうか?

 

曹操と曹丕

 

正史を見る限り、曹丕は偉大過ぎる父の曹操と比べれば確かに劣ってしまいますが、決して無能な人物ではありません。曹操は息子の曹昂(そうこう)が戦死した後、早い段階から曹丕を後継者として見なしていたようで、漢王朝の丞相を務める自身の代理、すなわち事実上の副丞相としてしばしば自身の留守を任せていたようです。

 

曹植と曹丕に期待する曹操

 

人材を見抜く才では右に出る者がいない曹操が後継者に指名するくらいなので、無能な人物であるはずがありませんね。

 

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三国志平話

 

 

 

曹丕は本当に戦下手だったのか?

凡人すぎた楊雍(はてな)

 

では、演義にあるように曹丕は戦下手だったのでしょうか?

 

魏志(魏書)_書類

 

正史を見る限り、皇帝となる前の曹丕の戦歴はあまり記録されていません。おそらくは父の曹操に従って各地を転戦したと思われますが、赤壁(せきへき)の戦い以降は各地で戦う曹操の代わりに首都を守っていたようです。

 

逃亡する兵士 三国志ver

 

そんな中、219年(建安(けんあん)24年)に危機が訪れます。曹操が漢中遠征で劉備(りゅうび)に敗れた隙をつくように、(ぎょう)魏諷(ぎふう)陳イ(ちんい)らが反乱を企てます。

 

撃剣を使う曹丕

 

これに際し、曹丕は陳イの密告を受けるとあっという間に反乱勢力を一網打尽にしています。これを見る限り、曹丕は凡将というよりはむしろ、有能な将に見えるのではないでしょうか。

 

曹丕

 

しかし、正史においても曹丕は皇帝即位直後に大きな軍事的失敗をしていることが記録されています。222年(黄初(こうしょ)3年)に曹丕は、30万という大軍を興して夷陵(いりょう)の戦いで疲弊した呉を攻めます(いわゆる「三方作戦」)。

 

朱桓(しゅかん)

 

呉は窮地に立たされますが、濡須口(じゅしゅこう)の戦いで朱桓(しゅかん)曹仁(そうじん)を破るなど、魏は敗北を喫します。これによって、魏は呉を滅ぼす好機を失い、いわゆる「天下三分」の情勢が固まってしまいました。

 

曹丕にビビって意見を言えない家臣達

 

このように、圧倒的に有利な情勢でありながら、呉に敗れてしまったことで、曹丕は魏による天下統一の望みを逸してしまったともいえます。「曹丕=戦下手」という悪いイメージはこの呉に対する敗戦のほか、漢王朝を倒して帝位を簒奪(さんだつ)したという簒奪者としての悪名からきているのではないでしょうか。

 

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濡須口の戦い特集バナー

 

 

張遼は曹丕のせいで命を落としたのか?

憤死する麋竺(モブ)

 

『三国志演義』では、名将・張遼が戦下手な皇帝・曹丕の失敗のツケを払わされたように見えます。つまり、曹丕が無理な呉攻めを敢行したものの失敗し、張遼は曹丕を逃がすために呉軍と必死に戦って負傷し、その傷がもとで死んだというものです。

 

三国志演義_書類

 

しかし、これは明らかに創作です。張遼は確かに呉と長年戦い続けた将であり、222年に曹丕が起こした遠征にも参加しています。しかし、正史の記述を見る限り、張遼は遠征の前から病に倒れてしまっており、曹丕の「三方作戦」が本格的に発動する前に病死してしまいます。

 

三国志(歴史)を誇張しまくる羅貫中 ver2

 

ですので、曹丕を逃がすために戦い、その時の傷がもとで死んだというのは『三国志演義』の作り話なのです。『三国志演義』は蜀を善玉、魏を悪玉とする物語なので、魏の皇帝にして漢王朝を滅ぼした曹丕は当然、大悪人として描かれます。

 

魏の皇帝になった曹丕

 

だからこそ、『三国志演義』での曹丕はかなり貶められて書かれているのです。確かに、呉を攻めて返り討ちにあったのは史実ですが、『三国志演義』ではそれを拡大し、曹丕の無理な作戦のせいで名将・張遼が死んだとすることで、曹丕の凡庸さ・無能さをより際立たせようとしているのではないでしょうか。

 

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三国志ライター Alst49の独り言

Alst49さん 三国志ライター

 

いかがだったでしょうか。『三国志演義』は非常に人気がある作品であり、日本で流布している三国志関連の作品もこれに依拠しているものが多いです。

 

三国志(歴史)を誇張しまくる羅貫中

 

『三国志演義』では悪役とされる曹操や曹丕ですが、曹操はダークヒーロー的側面があって人気が高い一方、曹操ほどの強烈なキャラクターがない曹丕はどうしても評価が低くなってしまう傾向があります。

 

北方謙三風ハードボイルドな曹丕

 

しかし、正史を見れば、曹丕もただ凡庸なだけの人物ではないことが分かります。『三国志演義』と正史では、同じ人物が全く違う側面をのぞかせる、この点も三国志のみりょくではないでしょうか。

 

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張遼

 

 

 

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Alst49

大学院で西洋古代史を研究しています。中学1年生で横山光輝『三国志』と塩野七生『ローマ人の物語』に出会ったことが歴史研究の道に進むきっかけとなりました。専門とする地域は洋の東西で異なりますが、古代史のロマンに取りつかれた一人です。 好きな歴史人物: アウグストゥス、張遼 何か一言: ライターとしてまだ駆け出しですが、どうぞ宜しくお願い致します。

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