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張遼の子孫たちはその後どうなった?正史と三国志演義で動向を追ってみた

2021年10月22日


 

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現代でも人気な張遼

 

三国志において、曹操(そうそう)曹丕(そうひ)の二代に仕え、魏を支えた功臣である張遼(ちょうりょう)。張遼という武将は、三国志ファンなら知らない者がいないほど有名ですが、張遼の子孫たちがどのような生涯を送ったのかについては、なかなか知られていないのではないでしょうか。

 

そこで、今回の記事では、張遼の子孫たちの知られざる生涯を探ってみたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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張遼の息子・張虎

張虎と楽綝

 

張遼には張虎(ちょうこ)と呼ばれる息子がいたことが知られています。張遼が222年(黄初(こうしょ)3年)に亡くなった後、張虎は張遼の爵位である晋陽侯を受け継いだといわれています。

 

晋陽は現在の山西省の省都である太原にあたり、春秋時代の大国である晋の主要都市として、古くから繁栄していました。また、後漢の時代には并州(へいしゅう)の州都が晋陽に置かれており、晋陽侯に封ぜられたということは、并州出身の張遼にとっては「故郷に錦を飾る」ことだったのですね。

 

正史三国志_書類

 

話を張虎に戻すと、『正史三国志』における張虎の記述はかなり少なく、父から晋陽侯の地位を継承したほか、後に偏将軍に昇進していることが記されているくらいです。張虎の偏将軍という地位は、将軍の中では下級であり、父の張遼が就任した前将軍に比べればいささか低い地位でした。

 

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晋王朝のマイナー武将

 

 

 

『演義』での張虎:まさかの引き立て役!?

三国志演義_書類

 

その一方で『三国志演義』では、『正史』に比べて張虎の登場頻度が若干増えています。『演義』の張虎は、楽進(がくしん)の子である楽綝(がくちん)とコンビを組み、司馬懿(しばい)の部下として諸葛亮(しょかつりょう)率いる蜀の北伐軍を迎え撃つ役回りとして登場します。

 

孔明

 

しかし、父の張遼とは異なって軍事の才能は全くなく、諸葛亮に連戦連敗を喫してしまうようなやられ役として描かれてしまっています。さらに、ある時には蜀軍に捕らえられ、全裸にされて魏の陣営に戻されて嘲笑を受けるという、なんとも恥ずかしい目に遭ってしまっています。

 

三国志(歴史)を誇張しまくる羅貫中 ver2

 

ただし、『演義』はあくまでも史実を基にした創作であり、蜀を主人公として魏を敵役として描いた物語である以上、魏の将軍である張虎はどうしてもネガティブな描き方をされるところは仕方ないようにも思えます。

 

敵を相手にして奮闘する張遼

 

しかし、それを考えると、魏の武将である張遼は『演義』ではネガティブな描かれ方をされても仕方ないはずです。

 

関羽の降伏を説得しにいく張遼

 

それにもかかわらず、『演義』では合肥(ごうひ)の戦いでの張遼の獅子奮迅(ししふんじん)の活躍や、関羽(かんう)との漢の友情が登場するなど、敵役のはずの張遼が漢気のある名将として描かれているということは、それだけ張遼という人物の魅力がとびぬけたものであったということなのですね。

 

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関羽

 

 

張遼の孫・張統

魏志(魏書)_書類

 

一方、『演義』では散々な目に遭っている張虎ですが、そんな張虎の息子が張統(ちょうとう)という人物です。張統に関する記述はさらに少なく、三国時代の後の西晋の時代を生きた人ということは分かっているのですが、西晋でどのような官職についていたかということは不明です。

 

水滸伝って何? 書類や本

 

張統に関する史料記述は、北宋の司馬光(しばこう)がまとめた『資治通鑑(しじつがん)』にわずかに見られます。『資治通鑑』(第八十八巻・晋紀十)によれば、張統は楽浪(らくろう)帯方(たいほう)の二郡に勢力を持っていたが、高句麗乙弗利(おつふつり)美川王(びせんおう))に攻められて孤軍奮闘した末に、楽浪郡の王遵なる人物の献策を受け入れ、313年(建興(けんこう)元年)に鮮卑族慕容部(せんぴぞくぼようぶ)慕容廆(ぼようかい)に帰順します。

 

楽浪郡を手に入れた慕容廆は張統を太守としたのです。

 

スキッパーキ(はてな)

 

この記述ははっきり言ってかなり謎が多いと思われます。まず、楽浪・帯方の二郡は現在の朝鮮半島北部です。なぜ魏の偏将軍であった張虎の息子がそのような辺境を拠点とするに至ったのか、その説明が史料を読んでも見当たりません。

 

また、『資治通鑑』の記述では、「廆為之置樂浪郡、以統(筆者注:張統のこと)為太守」となっているのですが、これは「張統が慕容廆によって太守に任命された」と読むことができますが、これ以前の張統が果たして楽浪郡・帯方郡でどんな役職についていたのか、読み取ることができません。

 

もちろん、張統が西晋の楽浪・帯方郡太守であり、慕容廆の下で留任されたとも読めますが、楽浪・帯方郡の太守ではなかった張統という人物が初めて慕容廆によって太守に任命されたとも読めます。

 

このように、張遼の孫にあたる張統の生涯は、なんとも謎に満ちたものとなっています。ですが、史料から何も情報が得られないからこそ、そこに想像力を働かせる余地が生まれ、歴史のロマンがかき立てられるのではないでしょうか?

 

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全訳三国志演義

 

 

三国志ライター Alst49の独り言

Alst49さん 三国志ライター

 

いかがだったでしょうか?

 

今回は張遼の子孫たちについて掘り下げてみました。どうしても偉大な武将である張遼の影でかすんでしまいがちな張虎と張統ですが、彼らの前半生は史料に記述されておらず、不明なことが多いです。

 

羅貫中

 

しかし、これは逆に想像力を働かせる余地が多いということでもあり、我々が自由自在に彼らの前半生に思いをはせることができるということでもあります。

 

筆者は今回、張遼の子孫たちを調べてみて、三国志は、こういった形でも我々を愉しませてくれる素晴らしいコンテンツであることを改めて実感させられました。

 

皆さんはいかがでしょうか?

 

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張遼

 

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Alst49

大学院で西洋古代史を研究しています。中学1年生で横山光輝『三国志』と塩野七生『ローマ人の物語』に出会ったことが歴史研究の道に進むきっかけとなりました。専門とする地域は洋の東西で異なりますが、古代史のロマンに取りつかれた一人です。 好きな歴史人物: アウグストゥス、張遼 何か一言: ライターとしてまだ駆け出しですが、どうぞ宜しくお願い致します。

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