「夏侯惇」は曹操の親戚で、彼に付き従い数多くの戦で功績を上げたことで知られています。
その曹操と劉備、孫権連合軍が戦った「赤壁の戦い」は、まさに「天下分け目」の戦いといった所だったのですが、「夏侯惇」はその戦いで活躍したのでしょうか?
今回の記事では夏侯惇の生涯と「赤壁」での動きについて探ってみましょう。
この記事の目次
「夏侯惇」とはどんな人?
夏侯惇は曹操の「いとこ」と言われ、彼の挙兵から付き従った武将です。若いころは師匠を侮辱した男を殺すなど、気性の荒さで知られますが、その武勇は曹操に信頼され、多くの戦いに従軍しました。
呂布との戦いの際に、流れ矢に目を射抜かれ、それ以後は独眼となります。これにより、同族の「夏侯淵」と区別するため、夏侯惇は「盲夏候」と言われますが、夏候惇はこれを嫌がり、鏡を見るたびに叩き割っていたそうです。
武勇だけでなく、内政にも力を発揮し、灌漑事業などを行っています。曹操亡きあとは大将軍に任命されますが、曹操が亡くなった数か月後に後を追うように亡くなっています。
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「赤壁の戦い」とは?
「赤壁の戦い」は西暦208年に劉備、孫権連合軍と曹操軍の間で行われた戦いです。袁紹を破り、河北地方を制圧し、後漢王朝もコントロールできる地位に就いた曹操は天下統一をめざし、南下を開始します。曹操の大軍に孫権陣営は恐れをなしますが、周瑜や魯粛らは、徹底抗戦を主張します。
魯粛は劉備と同盟して曹操と戦う事を主張し、劉備陣営の諸葛亮も孫権に「曹操軍は疲弊し、荊州の兵も心から従ってはおらず、また、水軍も弱い」と説得をします。
これらの意見に対し、孫権は曹操と戦う事を決意します。そして「赤壁の戦い」では曹操軍に疫病が流行し、また、船を焼かれるなどし、曹操軍は大敗したのでした。
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夏候惇は「赤壁の戦い」ではどのような動きをしたのか?
赤壁の戦い当時の夏侯惇はバリバリ将軍として活躍していたころで、前年には功績が評価され、加増されたりもしています。しかし、正史「三国志」の「夏侯惇伝」では「赤壁の戦い」についての記述は無く、207年の加増の記事の後は216年の孫権討伐の記事になり、その間の業績がわかりません。
これは推測ですが、夏侯惇は赤壁には従軍したものの、水軍は苦手で活躍が出来なかったか、そもそも従軍しておらず、後方の守りについていた可能性もありますね。
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それでは小説「三国志演義」では?
小説の「三国志演義」での夏侯惇は、関羽と一騎打ちをしたり、矢を射ぬかれたときは目を食べてしまうなど、豪快な武将として描かれています。「三国志演義」では「赤壁の戦い」は前半のクライマックスと言っていい場面ですが、そこでも夏候惇は目立った記述はなく、印象には残りません。
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ちょっとだけ出てくる「横山光輝三国志」
横山光輝先生の漫画「三国志」は多くの人を三国志ファンにした傑作ですが、「赤壁の戦い」は見せ場の一つとなっています。ここでも「夏侯惇」(この作品ではかこう“じゅん”)は赤壁の戦では登場しません。しかし、赤壁で曹操が敗れたのち、体制を立て直すために軍議を開きます。
そこで曹操は夏侯惇に「夏侯惇、おぬしには襄陽城を任せた」というセリフがあります。
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映画「レッドクリフ」では似た感じの人が出てる!
2009年の映画「レッドクリフ」はジョンウー監督の「赤壁の戦い」を描いた超大作です。この映画には「夏侯惇」は出てきませんが「夏侯雋」という人物が登場します。公式によると彼は「夏侯惇」と「夏侯淵」を合わせたようなオリジナルキャラクターだとか。
夏侯雋は趙雲の名前を曹操に伝えたり、赤壁の場面では風が吹くまでの時間稼ぎをした「小喬」の命を付け狙うなど、そこそこの登場場面があります。ただ、赤壁の戦いにおいて船から趙雲に突き落とされるという悲しい最期を迎えてしまいます。
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三国志ライターみうらの独り言
「赤壁の戦い」ではどうやら夏侯惇の活躍は見られないようですね。戦に参加していないとしても、夏侯惇は曹操の古参武将ですから、ここまでの大敗は初めてだったのではないでしょうか?
戦いの後の夏侯惇の業績の少なさを見ても、もしかしたら何らかのショックを受けていたのかもしれませんね。
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