「魏延」と言えば、諸葛亮に警戒され、その悲惨な最期からか「謀反人」のイメージが強い人物です。しかし、魏延の逸話を見てみると、謀反人のイメージだけではない、魏延の本当の人物像が見えてきそうです。
今回の記事ではそんな魏延の逸話を見てみましょう。
この記事の目次
劉備を慕ってその配下になる魏延
小説「三国志演義」での魏延は主君を裏切り劉備に降伏し、諸葛亮に「反骨の相」(裏切りそうな顔をしている)があると出会ったばかりなのに警戒されています。
正史「三国志」によると、「私兵を率いて劉備に従った」とだけ記載されており、「主君を裏切って劉備についた」というのは恐らく創作で、地方の豪族だったものが劉備を慕って配下になったと考えられます。
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魏延、大見得を切る!
劉備が漢中を手に入れ、「漢中王」を名乗ると誰もが漢中の守備には「張飛」が就くと考えていました。しかし、その予想を覆し、漢中を任されたのは魏延だったのです。
諸将が動揺する中、劉備は会合を開きそこで魏延に曹操から漢中を守る抱負を聞きます。
魏延は「もし曹操が天下の兵総出で攻め込んできたならば大王(劉備)のためにこれを防ぎます。曹操の配下が10万の兵で攻め寄せてきたならば、これを呑み込む所存です!」と大見得を切り、これは劉備に賞賛され、魏延に疑問をいだいていた諸将もその意気込みには関心した、といいます。
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長安奇襲攻撃を提案するも諸葛亮に却下される
魏延は多くの戦で戦功をあげ、諸葛亮の北伐にも従軍します。ここで魏延は一発逆転の奇策を提案します。それは諸葛亮が通常ルートで魏を攻めている間、別ルートで魏延が長安を奇襲するというものでした。
これは「項羽と劉邦」が争っていた時代に、劉邦が蜀の桟道を修復している間に、「韓信」が別ルートで敵の領地に攻め込んだ故事からヒントを得たのでしょう。
しかし、この作戦を諸葛亮は却下しました。諸葛亮は「安全なルートを取る方が確実、また補給も不安」と考えたのでしょう。
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諸葛亮について常々愚痴る魏延
このように案を却下された魏延は常々諸葛亮に不満を感じていたようです。魏延は「諸葛亮は弱腰だ、これでは自分の才能を生かせない」といつも嘆いていました。
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【北伐の真実に迫る】
その勇猛さゆえ、周囲とは溶け込まず
魏延の兵はよく訓練され、とても勇猛でした。その勇猛さと魏延の自身の誇り高さから、多くの人は彼とは距離を置いていました。
しかし、文官の「楊儀」だけは公然と魏延に逆らい、怒った魏延が楊儀に剣を向けることもあったようで、二人は「火と水」のような関係でした。本来ならば「喧嘩両成敗」で両名を罰するべきでしたが、魏延の「武」と楊儀の「文」は蜀には必要だったので、諸葛亮は不問にしていました。
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