言わずと知れた「三国志」屈指の英雄、それが曹操です。しかし、曹操を悪役とする「三国志演義」の影響からか、どうしても曹操の評価は、優れた能力を持つ一方で極悪非道な「ダークヒーロー」的なものになってしまっています。
そこで、今回の記事では、「正史三国志」をもとに、物語的な虚飾を排して、曹操という人物の性格に迫っていきたいと思います。
冷徹な現実主義者・曹操
「正史三国志」を見る限り、曹操の性格を一言に要約するとすれば「冷徹な現実主義者」に尽きると思います。「正史三国志」での曹操は、ある一定の目標を定め、一切の先入観や固定観念を排して目標へと邁進する人物として現れます。
曹操の特徴として才能のある人物を重用するという点が良く挙げられますが、曹操のそれははっきり言って度を越していると言えます。
例えば、曹操は自分と敵対した張繍を攻めて2度にわたって敗れ、あわや命を失いかけています。
しかしそれでも、張繍が降伏しようとした際には、彼をあっさりと受け入れ、張繍の部下にして自らを殺すための献策をした軍師の賈詡をあろうことか自分の軍師にしてしまいます。
このようなことは常人にはできることではありません。天下獲りという目的のためには、私怨をあっさり水に流せるほどの器の大きさ、これこそが曹操の非凡な性格の一つではないでしょうか。
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人材の利用価値を見極める能力
曹操の冷徹さは、単にかつての敵を味方につけるというところだけではありません。曹操は人材を、天下獲りのための道具として見ているという側面があるのです。
例えば、袁紹の部下だった許攸は、官渡の戦いの時に袁紹を裏切って曹操に袁紹軍の兵糧のありかを教え、これが曹操の勝利のきっかけとなりました。
しかし、曹操は大功労者の許攸が欲深く傲慢な人物であることを見抜くと、あっさりと処刑しています。
また、才能あふれる禰衡を出仕させ、禰衡の無礼な言動を聞き流しますが、自分が禰衡を御しきれないと悟るや、すぐに禰衡を荊州に追放しています。
このように、曹操はただ単に才能ある人物を登用するのではなく、その才能が自らの目的実現に適う者であるかを見極め、そうでなければ才能があっても容赦なく切り捨てるというところが、曹操が非凡な現実主義者であるゆえんですね。
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儒教への挑戦
その一方で、曹操は前漢の武帝以降、漢帝国において中心的な価値観となっていた儒教をあまり重視していませんでした。前漢の武帝が導入した官吏登用制度では、儒教道徳に優れた者が「孝廉」として官吏に推挙されていたのです。
この制度は実際には有力者の子弟が主に推挙されるようになって形骸化しますが、それでも儒教は漢という王朝において絶大な影響力を誇っていました。しかし、曹操はあまり儒教を尊重したようには思われません。これには、曹操の出自が関係していると考えられています。
曹操は宦官の家系に生まれますが、子を残せない宦官は究極の親不孝者として、儒教的には蔑まれていました。儒教の下で鼻つまみ者とされていた宦官の一族に生まれたからこそ、曹操は儒教を絶対的存在としてはみなさず、伝統的権威である儒教に対して明確に挑戦的な態度を取ります。
これは、曹操の行動に現れています。曹操は旗揚げ当初こそ、荀彧・荀攸・陳羣らの孝廉に推挙された者たちを登用しますが、天下の大半を手中にした210年には「唯才是挙」(才能のみによって推挙せよ)のスローガンを掲げ、儒教道徳とは関係なしに、才能のある者たちを登用し始めます。
そして、208年に孔子の子孫であった孔融を処刑したことは、曹操の儒教に対する挑戦の最たるものなのです。
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情に厚い曹操
では、曹操は目的の達成のみに全力を傾ける、冷徹な機械のような男なのでしょうか?
もしそうなら、曹操はここまで人気のある人物とはなっていないでしょう。曹操は人の心を持たない機械のような男では決してなく、むしろ情に厚い男なのです。
曹操は、父親や自分の一族には深い愛情を持っています。
例えば、曹操の悪行として知られる徐州での虐殺ですが、これは徐州の陶謙が曹操の父親・曹嵩や曹一族を殺害したことに対する苛烈な報復でした。
冷徹な現実主義者である曹操にしては珍しく、このような怒りに任せた行動をとったのは、やはり父親や一族に対する思いがその背景にあったと考えるのが自然ではないでしょうか。また、曹操は天下獲りのためには、かつての盟友であっても容赦なく討ち倒しています。
しかし、曹操は決して冷血漢なのではなく、時には自らが滅ぼした盟友を思い、涙することもあるのです。例えば、曹操を裏切って呂布についたかつての盟友、陳宮は曹操に敗れ、捕らえられて処刑されることになりますが、曹操は死にゆく陳宮を見て涙し、その家族を一生涯に渡って世話したと伝えられています。
また、同じくかつての盟友にしてライバルであった袁紹を破り、袁家を滅ぼした後、かつての盟友の死を悼んで袁紹の墓を祀り、袁紹の家族の面倒を見たと言われています。
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか。こうしてみると、曹操は徹底的に私情を抑え込んで目的のために行動できる冷徹な現実主義者である一方、時に情に厚いところも見せるという矛盾した側面を併せ持つ人物なのですね。曹操という人物の魅力は案外、こうした二つの性格のギャップにあるのかもしれませんね。
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