諸葛亮は生涯のうち5回の北伐を行いました。そして、そのうち直接的に祁山に進軍したのは第一次、第四次北伐の2回です。
この2回はいずれも本格的な戦闘が行われましたが、なぜ諸葛亮は祁山にこだわったのか疑問も残ります。そこで今回はなぜ諸葛亮が祁山にこだわったのか、祁山の戦いの詳細と地理的背景から、その戦略的価値について考えてみたいと思います。
祁山は交通の要所
祁山は魏の領地であった天水郡の南西方面にあり、隴右地方に入るための南の玄関口とも呼べる場所です。蜀漢から見ると祁山は漢中の北西の方角に位置していて、距離は300km以上離れています。長安を目指すとなると非常に遠回りですが、道が平坦で行軍がしやすいという利点があります。
逆に漢中から直接長安を目指そうとすると秦嶺山脈を超える必要があり、いくつかある山道を経由しなければいけません。山越えは桟道という狭い橋を通る必要があり、大軍での行軍が難しいことや兵糧の運送に関してリスクが大きいというデメリットがあります。
さらに祁山から西方へ行くと羌族や氐族が多く暮らす涼州にも繋がっているので、祁山を抑えることができ、うまく帰順させられれば戦力差を埋めることができます。
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祁山の物産
祁山は隴右の中でも極めて農業が発達した地方であり、人口も密集している地域でした。特に祁山の南北には戸籍が万を数えるほどの地域もありましたし、大きな麦畑もありました。交通の要であると同時に穀倉地帯でもあったということで、蜀漢軍が漢中よりさらに前線の拠点とするには最適な場所だったと言えます。
また、太平寰宇記という書物には天水の名産が記載されていますが、その中に馬という記述も見られます。もっともこの書物が編纂されたのは北宋時代なので、三国時代も同じだったかは定かではありません。ただ、益州は騎兵が多くなかったことから、祁山を中心に北方の名馬を集めれば、優秀な騎兵部隊を編成することはできたのかもしれません。
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第一次北伐における祁山
ここからは実際に北伐において祁山がどのような役割だったのかを紹介していきます。まず諸葛亮は228年に劉禅政権初となる対魏軍事行動を祁山で行いました。
魏延は長安を守る夏侯楙が臆病であることから、少数による長安の奇襲を提案しますが、諸葛亮は安全策をとって祁山へ侵攻します。この時点では、魏が完全に油断をしていたため、祁山方面の防衛を手薄でした。
そのため、諸葛亮はすぐさま祁山を占拠し、街亭とその後方にある上慶に兵を置いて魏軍の進軍を阻みます。この動きによって天水、南安、安定の3郡は蜀漢に寝返ったため、あとは祁山を拠点としながら残る隴西郡が落ちるのを待つばかりでした。
しかし、隴西太守の游楚が降伏を拒み続け、街亭も馬謖の失策であっけなく抜かれてしまい、さらに安定や天水もどんどん奪い返されたことから諸葛亮は祁山を放棄して撤退することを決断します。
唯一の戦果は祁山の北にあった西県の住民1,000家あまりを移住させたことです。この作戦では祁山を中心に隴右より西を勢力下に収める必要があったので、拠点となる祁山の確保が難しくなった時点で作戦は失敗に終わったと考えられます。
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祁山の戦い
第一次北伐の後、魏は蜀漢に対する警戒を強め隴右地方の防衛に力を注ぎました。これを受けて諸葛亮は先に武都と陰平を攻略します。武都は漢中の西、祁山の南にあることから、ここを抑えておくことで兵糧輸送の効率を上げることが可能です。
武都と陰平を抑えた諸葛亮は再び祁山に到着すると、ここを守っていた魏軍を包囲。さらに諸葛亮自らが上慶方面へ進軍して、迎撃してきた郭淮らを破りました。さらに付近の麦を刈り取っていますが、この時はまだ4月で麦は青く、実っていなかったことから魏を兵糧攻めにするつもりだったと考えられます。
魏は大軍の食料確保の手段として関中からの輸送を検討しますが、郭淮が羌族を帰順させて食料を提供させたことでこの問題を解決。そして司馬懿が要塞に籠もり、持久戦の構えを見せたことで諸葛亮は一度後方にある鹵城へ後退します。
このまま持久戦に持ち込めば魏軍の勝ちは見えていましたが、司馬懿は部下の反対によって攻撃に出ることに。その結果、迎撃体制を整えていた諸葛亮の反撃によって司馬懿は破れます。
ただ、蜀漢軍も兵糧が乏しくなってきていて、輸送を担当していた李厳が撤退を進言したために祁山を制圧できずに退却をすることになりました。この戦では背後にある武都を落としたことで、祁山を長期的に確保しつつ、そこから天水や安定を切り取っていくつもりだったと考えられます。
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三国志ライターTKのひとりごと
その後、諸葛亮は五丈原で陣没をしてしまい、20年という時間を空けて姜維が北伐を再開します。しかし、この時には隴右一帯が開発されていて、容易には抜けなくなっていたことから姜維は祁山には出ずに隴左方面へ侵攻しています。
大きく迂回することにはなりますが、隴左からでも南安や天水の中核は狙えるので、防御の固まった南ではなく西側から攻めようという作戦だったのではないでしょうか。ただ、兵站の確保が難しく、深入りすれば補給ができなくなることから、姜維は度々兵糧切れで撤退をしています。
このように祁山の守りを固められると、それ以上奥に進むことが難しくなることからも、祁山は隴右以西を確保する上で非常に重要な拠点だったのです。ちなみに元和郡県図志によれば、祁山の周辺には諸葛亮塁、姜維塁、司馬宣王塁といった様々な防塁が築かれていて、熾烈な争奪戦が繰り広げられていたことが分かります。
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【北伐の真実に迫る】