中国の伝説では黄河で跳ねた鯉が龍門を通って龍へと変化したと言われています。そこからこの門は鯉躍龍門(リーユエロンメン)(日本で言う登竜門)と呼ばれるようになりました。
中国では龍は皇帝の象徴であり、始皇帝は神話世界における神を凌駕する上位の存在として皇帝という称号を用いました。つまり、龍と神はイコールであるということです。
関羽は死後に神様として祀られるようになりましたが、三国志演義にある官渡の戦いのストーリーは、関羽を神にするための登竜門であり、そのためにオリジナルのストーリーが創作されたとも考えられます。
三国志演義と関羽の神号
関羽は260年に劉禅が行って以来、宋代、元代、明代、清代と各時代で諡が追贈されてきました。その中で、明代末期に万暦帝から「協天護國忠義大帝」という神号を初めて贈られています。
それまでも関羽は軍事の神様や財神として祀られてきましたが、正式に国が神として祀ったのはこの時が初めてです。三国志演義が編纂されたのは元代から明代初めと言われているので、演義のストーリーが元となって関羽に神号が送られた可能性もあります。
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官渡の戦いは関羽の登竜門
「協天護國忠義大帝」という神号ですが、これは読んで字の如く忠義報国の神様です。加えて国を守るという点で軍事に関連しているとも言えるでしょう。関羽と忠義、軍神を結びつけるエピソードが演義の官渡の戦いには盛り込まれています。
それが顔良と文醜を討った話と、劉備のもとへと帰る際に5つの関所を破った話です。
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軍事の象徴
曹操は下邳の戦いで投降した関羽に対し、呂布の愛馬であった赤兎を贈っています。これによって呂布の最強という称号が関羽に渡ったと考えられます。
実際、赤兎馬に跨った関羽は白馬の戦いにおいて顔良と文醜を屠り、敵味方にその名を知らしめました。正史ではどの程度強かったのか分からない顔良と文醜ですが、演義では袁紹軍の中でも最強クラスの猛将として描かれています。
まず反董卓連合軍が結成され、汜水関で華雄が連合軍の武将を次々と討ち取った際、袁紹は「顔良と文醜がいれば」と漏らしています。これは顔良と文醜が華雄を打ち取れるだけの強さを持っていると強調するエピソードです。
さらに顔良は白馬の戦いで曹操軍の宗憲と魏続を討ち、徐晃を退けていますし、文醜も張遼と徐晃が二人がかりで挑みますが勝てませんでした。そんな二人を関羽は易易と討ち取っています。これによって関羽の武力が呂布に次ぐ、もしくは同等であると印象付けています。
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忠義の象徴
下邳で破れた関羽は劉備の奥方を守るために曹操へと降っています。曹操は様々な贈り物をして関羽を懐柔しようとしますが、いずれも失敗。
関羽は曹操の恩義に報いながらも劉備の行方を探し続けます。そして劉備の消息をつかむとすぐさま曹操の元を離れ、かつての君主のもとへと馳せ参じました。その際に5つの関所を破っていますが、これこそが関羽にとっての登竜門だったと考えられます。
これらの関所は黄河沿いに配置されていて、それらを突破していく様はまさに冒頭の鯉が黄河の龍門を通った話と類似しています。つまり、全ての関所を抜けた関羽は忠義の神様になったという裏の意味があったということです。しかし、まだ関羽は神様として完成したわけではありませんでした。
官渡の戦い以降の関羽
官渡の戦い以降で次に関羽がピックアップされるのは、赤壁の戦いで敗走した曹操と関羽が華容道で再び相まみえる場面です。この時の関羽は曹操に対する恩義と劉備への忠義の板挟みに合い、結果的に曹操への恩義を選択しました。
この選択によって関羽は真に忠義の化身となったと言えます。
曹操は関羽を生かし、劉備への忠義に報いることを許しました。それがきっかけとなり、関羽は関所という名の登竜門を抜けることになります。しかし、曹操が関羽に与えた慈悲が棘となり、関羽を不完全なままに留めていました。その慈悲を華容道で曹操自身に返すことによって画竜点睛となり、忠義の神である関羽が誕生したということです。
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三国志ライターTKのひとりごと
演義のストーリー構成は何の意図もなく作られたものではないでしょう。仮に民間伝承を反映したものであれば、関羽は民意によって神様になったと言えます。
ただ、張飛は関羽と実力がほぼ同じで、最初から最後まで劉備に仕えました。加えて、関羽が神格化される以前は張飛の方が民間における人気が高かったと言います。二人の大きな違いは国のために最後まで戦ったか、部下に裏切られて暗殺されたかという点だけです。
そう考えると時の王朝の意向によって関羽神格化の流れは生まれたのかもしれません。
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