夷陵の戦いで、押し寄せる蜀軍を、そして劉備に大打撃を与えた大都督、陸遜。これはその後の蜀、のみならず、魏、更には呉にも影響を与える勝利でした。
そんな陸遜が歴史の舞台に華々しく名乗りを上げる戦いと言っても良い夷陵の戦いですが、「陸遜は諸将になめられてて言うこと聞かせるのに苦労したよ」と言われております。
しかしこれよくよく考えると不可解……ということで、この一件について考えてみたいと思います。
この記事の目次
関羽との戦いからデビューする陸遜
さて、夷陵の戦いが陸遜のデビューのような書き方をしてしまいましたが、実際にはそうではありません。それ以前から陸遜は山越の討伐、そして関羽との心理戦などで呂蒙を支え、関羽を討ち取るのに心強い手助けをしたものです。
この時点で呂蒙、そして孫権には陸遜の類い稀なる慧眼さを知ることができていた、と言えるでしょう。それ故に、孫権は夷陵の戦いで陸遜を大抜擢した、という訳です。
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夷陵の戦い
そうこうして始まった夷陵の戦い。関羽の復讐とばかりに勢い盛んに攻め寄せる劉備。対する陸遜は守勢に構え、陣を後退させていきます。
しかしこれに不満を持ったのが呉の諸将。当時の夷陵の戦いには孫桓・徐盛・韓当・朱然・潘璋・宋謙・鮮于丹といった名だたる武将たちが集っていましたが、彼らは「古くから呉に仕える宿将」「五の宗室に連なる身分」であったため、陸遜を侮り、言うことを聞こうとしなかったりと……と言う所で、あれ?と思いました次第です。
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陸遜の活躍:山越の討伐
前述したように、陸遜は嘗て山越の討伐で武功を立てています。陸遜はこれを平定、更には反乱を鎮めたことで定威校尉となりました。この一件で孫権は陸遜を気に入って、重用するようになったと言います。
またこの功績を評価したのか、陸遜に姪、つまり亡き兄である孫策の娘を与えた、とも記録されているのですが……つまりそれって、孫権から見れば陸遜は「義理の甥」ということではありませんか???
陸遜の謎
この時点で、孫策が亡くなってから時はだいぶ経っています。とは言え、孫家の先代、孫権からすれば実兄、志半ばで散った不運な英傑。そしてそんな孫策の遺児、孫権から見ても姪と婚姻させたような人物。多少離れるとは言え、宗室と言っても良い間柄!
そんな孫策の娘を娶っている陸遜は、どうして諸将からなめたような態度を取られて困ってしまったのか?もちろん「呉の諸将に問題があるのでは?」という話だけではないでしょう。そこで踏み込んでみたいのが、孫策、孫権の兄弟です。
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孫権と孫策の不仲説疑惑
孫権と孫策は七歳年が離れています。兄、孫策が亡くなった時はまだ孫権は19歳で、偉大な父、兄を亡くし、若くして孫家を背負っていかなければならず。
孫策は才気煥発で勇猛果敢だった兄の遺志を継ぎつつ、そして兄を支えてくれていた人物たちの助けを得ながら、兄とはまた違った才覚を活かして呉を大きくしていくのでした……と、すると兄の後をしっかりと引き継いだ弟、という構図が出来上がりますが。実はこの兄弟、不仲説が囁かれているのは皆さんご存知のことかもしれません。
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