今回は、漢中を巡る攻防戦のことを考えてみましょう。漢中を巡る攻防戦といってもピンと来ない方も多いかもしれません。ただし、黄忠が夏侯淵を討ち取った「定軍山の戦い」前後の話というと、思い出してくれる方も多いのではないでしょうか。
どうにも、赤壁の戦いや夷陵の戦い、五丈原の戦いと比較すると、いまいち印象の薄いこの戦い。その印象の薄さを、今日はできるだけひっくり返しにかかりたいと思います。
まさに漢中の戦いこそ、曹操の天下統一を阻み、かつ三国鼎立時代の幕開けとなる、超重要な合戦なのです。天下統一を目指していた曹操にとっては、赤壁の戦いに匹敵するほどの「痛恨の敗戦」が、この一戦だったのではないでしょうか。
それも赤壁の戦いが、孫権と劉備の同盟軍に敗れたのに比較して、この漢中攻防戦は劉備軍単独に曹操軍が完敗したという、なおさら曹操の経歴にとっては決定的なインパクトをもったものなのでした。
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どうして漢中がそんなに重要だったのか?
まずは、戦場となった漢中のことから。これは巴蜀の北であり、曹操の重要拠点である長安につながる交通の要衝でした。のみならず、ここは狭路が入り組む、複雑な地形。占領したほうが砦や関門を構築すれば、相手の交通を阻害し、それでいて自分たちは敵の領地に攻め込める、戦略的にきわめて重要なポイントでした。
もっとシンプルに言うと、曹操が漢中を取っていれば、蜀に攻め込む作戦が取れるようになり、劉備が漢中を取っていれば、長安に攻め込む作戦が取れるようになる(つまり後の諸葛亮の北伐です)。国力も軍事力も上の曹操がここを先に占領していたわけですから、普通に考えれば、この土地の奪還は、国力や軍事力に劣る劉備の側にはかなり困難だった筈でした。
ところが、諸葛亮の巧みな戦術と、張飛、趙雲、馬超、黄忠らの猛戦により、劉備軍は漢中から曹操軍を追い出し、ここを自らの領土に組み込むことに成功してしまったのです。
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劉備にとってはただの戦略拠点というだけではなかった?「漢中王」を名乗ることの政治的意
蜀が漢中の奪還に成功したというだけでも、三国時代のパワーバランスに大きなインパクトをもたらす大事件ですが、劉備個人の経歴にとっては、このことはもうひとつ、重要な意味合いを持っていました。
劉備の目的は、漢王朝の復興。その漢王朝を開いた劉邦は、まさに漢中を拠点とし、「漢中王」を名乗り、そこから項羽に対する執念深い反撃を繰り返して、天下取りに成功したのです。
漢王朝の始祖である劉邦が拠点としていた土地を手にし、その事実を背景に「漢中王」を名乗る。これは漢王朝復興を大義名分としている劉備にとって決定的に重要なパフォーマンスであり、漢中をとったことが、ゆくゆくは、蜀の「皇帝」を名乗ることにつながっていったと言えます。
漢中を取ったことで、劉備は晴れて「かつての劉邦の後継たりうる」と天下に広めることができ、ひいてはこのことが、魏呉蜀の三国鼎立が完成するきっかけともなったのでした。
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もし曹操が漢中を奪われていなかったら、三国志はどのようになっていたか?
それにしても、ここでもし、曹操が漢中を奪われていなかったら、歴史はどうなっていたのでしょうか?
その後の三国志の展開に、以下のような違いが出たはずです。
・劉備も孔明も蜀を守るので精一杯、北上ができない(つまり北伐もない)
・劉備が漢中王を名乗っていない(蜀帝としての名乗りもあげられないかもしれない)
・魏呉蜀のパワーバランスは、魏が圧倒的有利なままこれだけパキッと曹操有利なら、このまま曹操が、曹丕の時代を待たずに帝位を得ていた可能性すらあります。
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まとめ:しかしこのシナリオにもステキなメリットが!関羽が死なない!
こうしてみると、劉備軍が曹操軍から漢中を奪ったことは、劉備軍の乾坤一擲の快挙であり、赤壁の戦いに匹敵するインパクトの大事件であったことがわかります。さらに言えば、これを成し遂げた時の劉備軍こそ、いちばんノリにノッているとき、組織としても、個々の武将たちの能力も充実していた全盛期だったのでしょう。
むしろ「ここで漢中を取れなければ、天下三分の計も成立せず、すべて終わり」というくらいに、劉備軍としては決死の作戦だったものと思われます。ですが、ここでもう少し、深読みをすることも可能です。もし、ここで曹操が漢中を奪われていなかったら、本当にそれで、劉備は「詰み」だったのか?
意外とそうでもないかもしれない、と思えるポイントがあります。
史実においては、劉備が漢中を奪ったことにより、孫権が劉備の勢力が巨大化したことを脅威に感じて、荊州攻略を開始します。この戦いで、劉備軍は荊州を失った上に、関羽という超重要人材を失うことになるわけです。
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三国志ライターYASHIROの独り言
もし、劉備が漢中奪取に失敗していたら?
劉備はもはや詰み?
と思いきや、孫権軍と劉備軍の結束が崩れることなく、関羽を失うこともなく、劉備と孫権が固い同盟で再度、手を組み、赤壁の戦い第二ラウンドのような、曹操 対 劉備・孫権同盟軍の明確な対決が見られたかもしれません。
それはそれで、歴史の展開がどうなっていたかはわからず。このパターンでのイフ展開シナリオも、掘り下げていくとかなり面白い展開が描けるのではないか、と思ったのですが、いかがでしょうか?
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