三国志の登場人物の一人、馬超。三国志演義では父思い、家族思いの正義の人で、曹操に家族を殺されて落ちに落ち延びてやっと劉備に迎え入れられるのですが……正史では、そんな彼とはまた違う、馬超の姿をみることができます。
こちらもこちらで突き抜けた暴れっぷりが凄いのですが、馬超から始まる涼州軍閥との争いの結末は、悲劇そのもの。今回はこちらを紹介させて頂きます。
この記事の目次
馬超が曹操の漢中侵略にざわつく
始まりはいつも馬超から。まずは勅使を受けて馬超の父、馬騰が入朝。この後に馬騰の軍は長男の馬超に引き継がれますが……これが後の引き金になります。
曹操が張魯と戦うことを決めると、馬超は疑心暗鬼に。
次に攻撃されるのは自分たちでは?
もうそうなる前にこっちから反乱を起こすべきでは?
やるなら今だ!(そうじゃない)
関連記事:【涼州の錦vs魏の文官】果たして勝ったのはどっち?
韓遂を味方につけるも反乱は失敗し一族皆殺し
ここで馬超は韓遂を仲間に引き入れ、曹操に反乱を起こします。有名な潼関の戦いであり、馬超、韓遂の連合軍は曹操を何度も苦しめることになりました。しかし許チョの抜群の武働き、そして我らが賈ク先生の離間の計によって馬超らは大敗。
ここで馬超は開始前の宣言通り、父親を見捨てての反乱によって馬騰らは皆殺しに合います。また馬超の行動を共にしてしまった韓遂の妻子も、曹操によって殺されることになりました。もうここまででも被害はかなり甚大ですが、ここからです。
関連記事:後漢書からわかる韓遂の誕生秘話!反乱プロデューサー韓遂はこうして生まれた
関連記事:董卓を破った馬騰とはどんな人?薪売りから反乱軍の大将に大出世
今度は冀城を落としに涼州へ
逃げ延びた先は涼州、ここで馬超は羌族を集めて再び蜂起。ここで馬超に対抗したのが涼州刺史の韋康。しかし八ヶ月に渡る抗戦の末、韋康は馬超に降伏することを選びます。
この時に、和議のために開城したにも関わらず、馬超は韋康とその一族を殺害。
そして韋康の元部下である、更に言うなら馬超に降伏することに反対していた楊阜、姜敍、趙昂らをそのまま配下に加えてしまいます。ここでまで、涼州で慕われていた韋康とその一族が殺害されました。しかしまだまだです。
王異が馬超の妻に取りいり信用させる
当然ながら、楊阜たちは馬超に内心では臣従する気はありませんでした。ここで活躍するのが、趙昂の妻である王異です。王異の評判が高く、馬超の妻が彼女を宴に招いたのです。
余談ですが、王異も夫と同じく馬超とは徹底抗戦派でした。王異は馬超の妻に取り入り、夫の趙昂たちがこれから馬超がやっていくには欠かせない存在であると説得。それを受けた馬超の妻は馬超を説得。当初は彼らを信用していなかった馬超は、趙昂らを信用するようになったのです。
関連記事:軍師・司馬懿と女策士・王異を比較!軍配はどちらに!?
関連記事:王異ってどんな人?戦乱の中で数々の逸話を残してきた女性武将
冀城を馬超から取り返すが死屍累々
そして反撃の時はやってきました。涼州での、血で血を洗うような戦乱の幕開けです。この際に、趙昂は息子の趙月が馬超の人質になっていたので躊躇うも、王異に説得され反乱を決意。後に趙月は馬超に殺されてしまいます。
また反乱を起こした際に父親の一件で馬超を罵倒した姜叙の母親と子が、激怒した馬超に切り殺されました。楊阜の一族、七名も殺害されています。
関連記事:法正の曲者だらけの交友録に諸葛孔明もガクブルだったってホント?
【次のページに続きます】