今回はミステリー……と言うほどではありませんが、ちょっと謎に思ったとある一家を追いかけてみましょう。タイトルで大体察せると思いますが、馬家の謎、つまり馬超の一族の謎を追いかけてみます。
この馬超、実は正史と三国志演義ではかなりイメージが違い、正史では良く分からない点も多くありますが、その一族、蜀に来てからの彼の一族を見ていきましょう。
この記事の目次
三国志演義の馬超は恨み晴らすマン
さてちょっと三国志演義の馬超のおさらいから。三国志演義の馬超は正に「錦馬超」と言われるに相応しい、鎧姿が凛々しい若武者。父親、馬騰と弟たちが都入りするのを見送り、長男として涼州を任される立場です。
しかし曹操に虐げられる献帝らを救おうと父親が立てていた曹操暗殺計画が露呈、彼は命からがら生き残って帰国した従弟、馬岱から無残に殺された父、弟たちの無念を慟哭し、仇討ちのために兵を挙げます。
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正史の馬超はかなり自業自得マン
一方で正史においはては逆に、漢中の張魯攻めを見た馬超は「曹操はいずれ涼州を狙う」と疑心暗鬼に陥り、韓遂と共に反乱の兵を挙げます。
こうして始まったのが皆様良く知る潼関の戦い。何度も曹操を追い詰めるも、結果は馬超らの敗北に終わり、馬超は逃亡。この罪に連座して馬一族、200余りが処刑されることとなりました。この際に馬騰らも処刑されています。
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妻子を捨てて蜀へ逃亡する馬超
さて逃走した馬超、何とか盛り返そうとするも涼州刺史の一件で反乱祭りになり、更に張魯の下まで落ち延びて再起を図ります。典略によれば張魯から何度も兵を借りては涼州奪還を試みるも上手くいかず、段々と張魯の元にも居辛くなってしまいました。
そこで劉備の噂を聞き、馬超はそのまま劉備の元に行くことになるのですが……この際に馬超は妻子と部下を張魯の元に置いていったとも言われ、この妻は別の人に与えられ、子は後にやってきた曹操に殺されたとも言われています。
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捨てられた馬超の子、馬秋
前述した典略によるとこの時に殺された子は馬秋という子だったそうですが、何にせよこの子は馬超が死去する際にはいなかったのではないか、という正史の記述があります。
馬超伝によると、馬超は222年、47歳で死去しました。この際に馬超の爵位は子の馬承が引き継いだとされています。置いていかれて処刑されたのか、そもそもいたのかどうかもやや不明ですが、この時点で別の子に譲られているので、おそらく存在していたとしても亡くなっていたと思います。
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蜀で生まれた馬超の子、馬承
因みにこの馬承ですが、その後はどうなったのかは不明です。ただ馬超伝を読むと馬超は臨終の際に「自分の一族200人余りは曹操に殺されてしまいました。ですが従弟の馬岱が残っております。彼を宗家の祭祀継承者として託します。くれぐれも宜しくお願いします」
と(割と珍しく)殊勝な態度で劉備に託していることを考えると、まだこの際に馬承は幼い子供だったのではないか、とも考えられます。そうなると馬承は成長の過程で亡くなった、もしくは行方不明になった(された)のかもしれません。
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