三国志にはたくさんの人物が出てきますよね~。まだまだ三国志の世界に足を踏み入れたばかり……という方は、登場する人物の名前を覚えるだけでも大変!
という方も多いのではないでしょうか。
例えば紛らわしい所で董卓配下と孫権配下に「李粛」と同名且つ性格がまるで違う同姓同名の別人がいます。これに没後のおくり名なども加わると余計にこんがらがる……ということで、今回は更にこんがらがって頂くため、たくさんの「穆皇后」についてご紹介しましょう。
この記事の目次
呉懿の妹である劉備の後妻穆皇后
まずご紹介するのは蜀の劉備の妻、呉夫人。ややこしいですが呉から嫁いできた孫権の妹ではありませんよ、彼女は孫夫人です。
呉夫人は呉懿の妹で、嘗て劉焉が入蜀した際に家族で同行しました。しかし彼女は人相見から「いずれ高貴な身分になる」と言われたことで、劉焉は彼女を息子の嫁に向かえます。ですがこの夫は早逝してしまい、彼女は未亡人となって過ごしていました。
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劉備の死後皇太后になった呉夫人
そこにやってきたのがかの「英雄は君と余だ」とまで曹操に言わしめた男、生き残ることに定評がある劉備その人。当時、妻であった孫夫人が問題ばかり起こしていたために新しい妻を……と勧められたのが呉夫人です。
蜀を手に入れた劉備は、流石に同姓の未亡人を娶ることに難色を示すも、法正の説得もあってこれを受け入れました。かくして呉夫人は、劉備の皇帝即位と共に皇后に、そして皇太后に。その死後は穆皇后とおくり名されることとなりました。
劉備に助言した法正
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曹操の娘で献帝に嫁いだ曹節
さてさてお次にご紹介するのは劉備のライバル、曹操の娘にして魏の皇帝、曹丕の妹である曹節です。曹操の娘だった彼女は、曹操が献帝を保護した際に妻の一人として迎えられます。迎えられたのか迎えさせられたのかは難しい所ですが、彼女は献帝の貴人となりました。
しかし後、献帝の皇后であった伏皇后の父親が、曹節の父親である曹操の暗殺計画を企てたとして、伏皇后は罪に連座され処刑されました。その後、皇后に昇格したのが曹節です。
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最後まで献帝を庇い続けた献穆皇后
三国志演義では曹丕に禅譲を迫られ追い詰められた献帝を更に追い詰める曹節ですが、実際にはこの当時は既に献帝は曹丕に逆らうことなく、禅譲はスムーズに……行われませんでした。
この時に曹丕に怒り、刃向かったのが曹皇后、つまり曹節です。曹節は玉璽を渡すのを拒絶、最後には泣き叫びながら使者に投げつけ、その後は最期まで夫である献帝、山陽公に付いて行きました。
その後、彼女は穆皇后、夫のおくり名を重ねて献穆皇后と呼ばれることになります。
最後まで献帝を見捨てなかった曹節
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子だくさん曹操の娘の一人『曹節』について語りたい。
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