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関羽は反権威?その真相を[徹底解明]

2024年8月31日


 

昔から、張飛(ちょうひ)関羽(かんう)の性格は対照的とされていて、張飛は上の人間にへつらい下の人間に厳しく当たる権威主義的性格とされ、逆に関羽は上の人間を憎み

 

 

関羽の呪いでなくなる孫皎(そんこう)

 

下の人間には寛容な反権威主義的な人だと言われてきました。しかし、本当にそうなのでしょうか?正史の三国志を読んでみると、反権威に見える関羽も、実はそこそこ権威主義者に見えるのです。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹操は否定するが漢王朝の権威には従う関羽

 

西暦200年、劉備(りゅうび)曹操(そうそう)暗殺計画に加担し、それがバレる前に袁術(えんじゅつ)討伐へ向かいさらに徐州に取って返し、徐州刺史の車冑(しゃちゅう)を殺して小沛を陥れ、関羽には

 

 

関羽に惚れる曹操

 

下邳(かひ)を防衛させて備えますが、曹操に撃破され劉備は袁紹(えんしょう)を頼り逃亡し、関羽は逃げきれずに、曹操の軍門に下ります。

 

 

顔良を討ち取る関羽

 

そこで、関羽は顔良(がんりょう)を斬るなどの手柄を立て曹操は漢寿/亭侯(かんじゅ・ていこう)に封じています。結局、関羽は劉備の下に帰ると宣言しているので曹操は否定していますが曹操がくれた漢王朝の位は否定していない事になります。

 

関羽が好きすぎる曹操

 

嬉々として漢の封侯を受ける関羽、ちょっと権威主義的かも・・もっとも、全ての権威を否定すると義兄弟である劉備の漢王室の血筋も否定しないといけなくなりますから、いかに実質は曹操の傀儡(かいらい)とはいえ漢の封侯を拒否しないのが権威主義的だとは言えないかも知れません。

 

 

新参者の黄忠と同列に並ぶのを拒否する関羽

 

西暦219年、定軍山で夏侯淵(かこうえん)を破り、漢中から曹操の勢力を追い出した劉備は自分の先祖の劉邦(りゅうほう)の故事にならい漢中(かんちゅう)を名乗り、苦楽を共にした自分の部下に功績に応じて爵位を与え始めます。一応、献帝(けんてい)には即位の件は連絡していますが事後承諾みたいなものでした。

 

 

その中でも、夏侯淵を斬る大きな手柄を挙げた黄忠(こうちゅう)後将軍(ごしょうぐん)にして報います。こちらは、前後左右将軍(ぜんごさゆうしょうぐん)という位で、それぞれ張飛、馬超(ばちょう)、関羽、黄忠が受ける事になりました。

 

 

孔明

 

ところが、ここで諸葛亮(しょかつりょう)が劉備に苦言を呈します。新参の黄忠と古参の関羽を同列にすると関羽が怒り受けないだろうと言うのです。

 

 

羅貫中と関羽

 

案の定、自分と黄忠が同列と聞いた関羽は「あんな老いぼれと一緒は嫌だ」とゴネ、結局、費詩(ひし)の説得で渋々受けるという流れになります。

 

 

関羽の怒りは本当に実力だけに向いていたのか?

 

関雲長(かんうんちょう)は、プライドが高い性格なので、どこの馬の骨とも知らない黄忠が自分と同じ地位である事を悔しく思ったのだと一般には説明されます。でも、本当にそうでしょうか?ちょっと孔明(こうめい)のセリフを見てみましょう。

 

 

関羽

 

 

「黄忠の名望は素より関羽、馬超の(たぐい)ではありません。しかし今、にわかに同列にしようとしておられます。馬超や張飛は近くに在って親しくその功を見ており、きっと聖旨を理解するでしょうが、関羽が遠くに聞けば恐らくは、きっと不愉快になりましょう。よからぬ事ではありませんか!」

 

 

羅貫中と関羽

 

 

黄忠は馬超や関羽より格下の名声しかないので、関羽と同じ地位にしては、その活躍を知らない関羽は、きっと機嫌を損ねるだろうというのです。

 

 

 

ここで、孔明は声望を問題にしていますね。単純に実力だけではなく、家柄から来る名声も関羽は気にし黄忠と同列に並ぶのを嫌がるだろうと言っているのです。そう黄忠が強いかどうかだけでなく、名声において馬超や自分に及ばない事を関羽は問題視しているわけです。これって、かなり権威主義的ではないでしょうか?

 

 

関羽は馬超の家柄と名声に遠慮している

 

 

ちょっと時間を遡って、馬超が劉備に投降した時を見てみましょう。214年、曹操に敗れて根拠地を追われ、張魯(ちょうろ)からも見限られ落ちぶれた馬超は劉備が成都を包囲している事を知って手紙を送って降伏の意志を伝えます。

 

 

劉璋(りゅうしょう)

 

 

劉備は喜んで馬超を迎え、情報を聞いた劉璋(りゅうしょう)は恐れを為し間もなく降伏しています。この頃に荊州を守っていた関羽は、孔明に手紙を出し馬超の人となりを尋ねます。要は「自分と比べて馬超はどうであろうか?」という事でした。

 

 

 

 

 

関羽の泰山(たいざん)より高いプライドを承知している孔明は、「馬超は、彭越(ほうえつ)黥布(げいふ)に匹敵する勇者で張飛と並ぶ人物ですが髭殿(ひげどの)には一歩及ばないでしょう」このように関羽を持ち上げて、関羽の自尊心を満足させました。余りに嬉しすぎて、関羽は来客に手紙を見せびらかしたそうです。

 

 

 

 

 

この遠慮がちで少し卑屈な関羽の行動に、kawausoは馬超の毛並みの良さに対する関羽の鬱屈(うっくつ)した負の感情を感じてしまいます。ここには、馬超の先祖が後漢の名将、馬援(ばえん)である事や、馬援の娘が馬皇后として二代皇帝明帝(めいてい)の皇后になっている事に対する名門への引け目が存在していたのではないかと思われるのです。

 

 

 

 

逆に黄忠は強いかも知れませんが、出自は南陽の出身としか分かりません。関羽同様に士大夫ではない可能性もあり、関羽としては、気後れする必要がなく遠慮なく「老いぼれ」と言えたのではないでしょうか?つまり、馬超は家柄から来る名声があるから、手柄がなくとも認めるが黄忠はそうではないじゃないか!と関羽は言いたいのです。

 

 

 

孫権には反抗している?

 

「ちょっと待って、関羽は孫権(そんけん)が嫁をくれと言った縁談(えんだん)も蹴っているけどあれは反権威的じゃないの?」そんな意見もあるでしょう。

 

 

呉の孫堅

 

しかし、孫呉というのは孫堅(そんけん)の前は士大夫階級ではなく孫権は魯粛(ろしゅく)に「あなたは曹操に降伏し侯で無くなったら一生庶民で終る」と言われて開戦を決意した位でした。

 

今は立派に着飾っていても、元は魚醬(ぎょしょう)臭い海運事業者の(せがれ)と関羽は考えていたでしょうから、何も気遅れする必要はないのです。そうでなくても状況次第で、魏についたり離れたりする孫権を、軽蔑(けいべつ)していたのは間違いなさそうですしね。

 

 

 

陸遜を(あなど)ったのも無名だから・・

 

関羽が樊城(はんじょう)襄陽(じょうよう)を包囲している頃、陸遜(りくそん)(へりくだ)った手紙に安心し後方の警戒を解いたのも有名な話です。

 

関羽を油断させる陸遜

 

この頃、陸遜は呉では知られていても国外では無名でした。もし、相手が呂蒙(りょもう)なら関羽も手紙程度で油断しなかったでしょうがやはり無名=大した事がない人物という権威主義的な色眼鏡から陸遜の力量を誤ったと考えられます。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

馬超の戦歴ついては、潼関(どうかん)の戦いで曹操を追い詰めたのがピークで蜀軍に入ってからは、特筆するような手柄を立てていません。一方の黄忠は、定軍山で夏侯淵を討ち取って漢中(かんちゅう)を領有し、(しょく)が長期政権を維持する事を可能にする大手柄を立てました。

 

 

 

関羽が反権威であるなら、むしろ黄忠が実力で後将軍になる事は賛成し馬超が左将軍になるのは「手柄もないのに」と反対すべきです。しかし、事実は逆になっているので、関羽は家柄や名声も含めて人を見ていたある程度の権威主義者だったと結論するしかありません。

 

パワハラをする張飛

 

もっとも張飛のように、下の人間には容赦なく過酷な刑罰を与えるような露骨な権威主義者ではないので、関羽も生身の時代は人の子でありそこそこ権威主義だった、そういう事ではないかと思います。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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