7月に入り、新しく就職した社会人の皆さんは、新しい職場に馴染み、遣り甲斐を感じている頃でしょうか?それとも、五月病、絶賛継続中だったり、早くも転職を考えていたり、するのでしょうか?「封建の時代はいーよな、、家柄だけで高い地位につけて」三国志に詳しい方は、そのようにため息を漏らすかも知れませんが、ところが、どっこい、三国志の時代だって就職は大変だったりするのです。
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実は極端な派閥社会だった三国志の時代
さて、あなたが三国志の時代に生まれて、そこそこ名のある、勉強できる環境にある、豪族の家に生まれたとしましょう。ですが、家柄があるからと言って、黙っていては一生就職できないで終わる可能性もありました。というのも、各州には、名士と呼ばれる知識人の層がありました。
一番有名なのは、豫州頴川(えいせん)郡で、荀彧(じゅんいく)や荀攸(じゅんゆう)、郭嘉(かくか)、陳羣(ちんぐん)、鍾繇(りゅうよう)というような錚々たる面子が並んでいます。
同じく豫州の汝南(じょなん)郡も後漢の光武帝が出た名士を輩出した土地で、ここからは、名士ではありませんが、呉の名将、呂蒙(りょもう)や一点の曇りもない、スーパーエリート袁術(えんじゅつ)や袁紹(えんしょう)も出ています。
また、劉表(りゅうひょう)が長く治めた荊州にも名士層があり劉焉(りゅうえん)の支配した益州にもありました。冀州や、徐州にもあったようですから、後漢の十三州の、いたる土地に、このような名士層は存在していました。そこに属していないと、孝廉(こうれん)でも、茂才(ぼうさい)でも推挙されず、ずっと世に埋もれるという可能性さえあったのです。
有名評論家の評価を得る為に皆必死・・
あなたが、もし、そのような地元の名士と、父祖の代から、親しい関係というなら、よほど、素行が悪くない限り就職は、大丈夫と言えるかも知れません。ですが、そうでないなら、早急に手を打たないといけません。具体的には、許子将のような著名な人物評論家に交友を求めて自分の人品を鑑定してもらい箔をつけるのです。
曹操(そうそう)は、まだヤンキーで無名の頃に、知人の勧めで、三国志時代のインフルエンサー、許子将(きょ・ししょう)と交わり、有名な、治世の能臣、乱世の奸雄のキャッチコピーをもらっていますし、派手好きで、ブイブイ言わせていた袁紹は、そんな自分の姿を許子将に見せられないと、わざと質素な身なりに着替えて、やり過ごしています。
三国志の一流所でさえ、そうなら、あなたも、気難しい、気分屋の人物評論家の機嫌を取るしかないでしょう。嫌でしょうが、就職の為です。
就職しても、仕える人間を間違うと悲惨な生活が・・
さあ、あなたは、幾多のごますりと機嫌取りの末に、人物鑑定家から、「千里の駒」か、「慎み深い賢者」か、「清廉にして誠実」か、何らかの評価を得てようやく、群雄に就職できました。これで一安心と思ったら、大間違い、、実は、群雄によって、名士に対する態度が違うからです。
名士を憎んでいる公孫瓚や、体育会系の劉備の所だと悲惨な事に
すべての群雄が曹操のように名士を愛したわけではありません。何しろ、底辺から這い上がった群雄にとって、名士は自分より、著名な人々であり、土地で尊敬を得ており、また結託すれば、自分に牙を剥きかねないライバルでもあるのです。
事実、あれだけ名士を取りこんだ曹操も、兗州を領有した頃は、名士層の取り込みに失敗して、徐州に陶謙(とうけん)を攻めている最中に、陳宮(ちんきゅう)や張邈(ちょうばく)に背かれ、兗州の殆どの城が離反しています。
また、公孫瓚(こうそんさん)は、「名士なんかハナから信用しないもんねー、わし」と切り捨て、自分と気が合いそうなゴロツキや、下層身分で、実力主義の人間だけを採用しました。これは、いいアイデアに思えますが、名士層の協力なしに、広大な北方の統治は難しく、結局、名士層の取り込みに熱心だった袁紹に滅ぼされています。
劉備はともかく、名士を敵対視している関羽や簡擁が怖い
また、劉備(りゅうび)は名士を軽んじたわけではないのですが、義勇軍の傭兵隊長から出発しているので、生死を共にした人間は下層階級の人物が少なくありませんでした。
それは、関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)、簡擁(かんよう)のような人々です。張飛は、身分が高い人にヘーコラする部分があるので扱いやすいですが、関羽や簡擁は、身分の高い名士を「いけすかねぇ連中」と憎んでいます。
特に簡擁は、劉備の下に入った頃の諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)を気に食わなく思っていて、孔明が休息しようと、長椅子のある場所まで行くと、椅子を独占し、決して孔明に譲ろうとはしませんでした。
関羽も目下の人間には優しい代わりに、目上や同僚には非常に厳しく、そのあまりの厳しさに、士仁(しじん)と縻芳(びほう)は体罰を恐れて、孫権に降ったと言われる位です、もうね、パワハラまがいですよ、関羽。天下の奇才、孔明でさえ、こんなチンピラ扱いですから、あなたが劉備軍や公孫瓚軍に就職した場合、かなり辛い思いをする可能性は否定できません。
社長の権限が弱く、派閥争いが激しい呉
「魏は、出来る連中ばっかりでノルマがきつそうだし、蜀は、規則でガチガチで息苦しそうだな・・どうせなら、呉みたいな南の国で、楽しくのんびり仕事が出来たらいいな」
あなたは、もしかすると、そう思い呉へ就職しようと思ったかも知れません。確かに南方の呉は疫病こそ怖いですが、気候は温暖だし、人は古の楚人の風合いで性格は激烈だけど、一度、打ち解ければ家族も同然です。しかし、呉は、魏や蜀と違い、トップダウンではなく、豪族の連合政権の意味合いが強く、激しい派閥争いがあります。
孫権(そんけん)の晩年に起きた二宮事件など、呉臣が真っ二つに分裂して、お互いを罵りあうという凄惨な状態が起きました。「私は中立でーす、、」という態度は呉では許されないのです。また、仕えるべき孫権は、酒乱であり、飲めない部下に無理に飲酒を勧める悪癖があります。仕事とプライベートは別にしたい人は、仕事の後に続く、地獄の孫権の酒宴に、とてもついていけないでしょうね。
三国志ライターkawausoの独り言
いかがでしたか?家柄さえあれば自動的に出世できそうな三国志の時代も乱世という事もあり、結構、大変だという事がお分かり頂けたでしょうか?なんだかんだで、どの時代も就職は一生を左右する重大事で、楽勝な就職とお気楽な人生は、よほどのアッパークラス以外には、なかったのかも知れませんね。本日も三国志の話題をご馳走様・・
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