前漢の景帝の何百人いるか分からない子孫の一人、という触れ込みで漢室復興をスローガ ンに立ち上がった劉備(りゅうび)
一介の蓆売りに身をやつしていた没落貴族が一念発起し、
立身出世にお家復興を飛び越えて一国の主にまで上り詰めたわけですから、
これぞまさにアメリカンドリームならぬチャイニーズドリームですよね。
そんな人物ですから、もちろん常人とは違っていたのでしょう。
この記事の目次
劉備の外見はどうだったの?
正史『三国志』蜀書には 劉備の外見について「身長は七尺五寸(約 181.5 cm)、
手を垂らせば膝下まであり、首を巡 らせれば己の耳を見ることができた」と記しています。
「手を垂らせば膝下」はそれだけ腕が長かったか膝の位置が高かったのであり、
「首を巡らせれば己の耳」はそれだけ耳が大きかったか長かったという意味になりますが、
いずれにしても最早人種というより生命体が違うのではと思えてきます。
もちろん、本当に記載通りであれば妖怪手長人になってしまいますので、
誇張部分を差し引いて受け取らなければなりません。
その中で信憑性のあるのは身長と耳の情報でしょうか。
当時の身長では劉備は高い方だった
前に曹操の回でご紹介したとおり、当時の平均身長は 7尺で、7.5 尺であれば高い部類に入ります。
多少サバは読んでいるかもしれませんが、現実的な数値の範囲ですし、ともかく 平均よりは上背はあったのでしょう。
更に耳についても、処刑される呂布が劉備に向かい「大耳野郎」と罵ったセリフが『後漢書』の本文に残っていますので、
目立って大きな耳であったのは間違いなさそうです。
残る腕の件については、劉備は曲がりなりにも皇帝になった人ですから、欠点を上げづらかったとは思いにくいです。
となればこれまた以前ご紹介した孫権と同様のパターンで、
奇相=非凡な人物というお決まり文句なのでしょう。
実際、劉備以外にも「手を垂らせば膝下」な人は結構います。
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手を垂らせば膝下の人は多かった
②五胡十六国前趙の第 5 代皇帝・劉曜(『晋書』)
③北魏の李祖昇(『北斉書』)
④南朝宋の王元(『南斉書』。ただし“自称”)
⑤北周建国の父・宇文泰(『周書』)
⑥南朝陳の初代皇帝・陳霸先と第 4 代皇帝・陳頊(『南史』)
⑦五代十国前蜀の後主・王衍(『新五代史』)
⑧五代十国南漢の初代皇帝・劉龑(『『新五代史』)。
並べてみると、帝王レベルの人に多いことが分かります。
それも道理で、たとえば①の司馬炎は「手を垂らすと膝を超える。“天表”とはこういうもので、とても臣下の相ではない」
と評されています。
“天表”というのは「帝王の偉大な御姿」のこと。
つまり手が膝下まで あるのは帝王のしるしとされたのです。
例外的に③の李祖昇は大した人物ではなかったようですが、
優れた容姿で文才があったことが書かれていますし、
④の王元がわざわざ自称したのもそれが瑞相とされたためでしょう。
また面白いのは⑦の王衍で、前後の文を見ると「方頤大口(角ばった顎に大きな口),垂手 過膝(手を垂らすと膝を過ぎ),顧目見耳(目を巡らせれば耳が見える)」とあります。
このセット、どこかで見覚えがありませんか。
そう、最初の「角ばった顎に大きな口」は孫権、あと二つはそのまま劉備の特徴と同じ表現が使われています。
ということは、これらはすべて偉人の相を表現していたわけですね。
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日本の場合は?
たとえば日本では、ますかけ線(百握り)の手相を持つ人は大成する、天下取りの手相だとよく言われます。
日本人に特に多いそうですが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、近現代でも松下幸之助や田中角栄など名だたる人物がこの珍しい手相をしていたことで有名です。
要するに迷信や偶然と切り捨てるには実例が多いので、皆さん何となく特別視しているわけです。
同じように、中国ではビッグになる人物の特徴に共通の傾向があって、それが固定観念となったのかもしれません。
あるいは、奇相の人物が偉大になるという思想だけが先にあり、 実証はこじつけということもありえます。
いずれも現物(遺体)の発見と科学検証を待たねばなりませんが、
いつの時代も大事を成す人は凡人とは違う何かを持った人種に思われ ていたということですね。
ただそんな完璧に思える劉備にもコンプレックスがありました。
劉備のコンプレックスって何?
それがヒゲ。どうも劉備はヒゲが無い、もしくは薄かったようなのです。
『三国志』蜀書によると、張裕というヒゲの毛深い人がいて、
ある時劉備がからかって「俺は昔、涿県に住んでいたが、あすこは毛という名字の多い土地柄で、
東西南北あっちもこ っちもみんな毛さんなものだから、涿県知事が『涿の周りはどんだけ毛だらけなんだ!』 と言ったってな」
と皮肉ると、張裕はすかさず
「その昔、上党郡の潞県知事だった人が、 後に涿県知事となり、退官して故郷に戻ったが、
知人が手紙を出すのに尊号を潞とすべきか涿とすべきか迷って『潞涿君』と書いたんだとか」と返したそうです。
中身はレベルの低い喧嘩ですが、それなりに諧謔があって、
劉備は自分の故郷である涿と同音の啄(啄む =唇)をかけて「諸毛繞涿=口周りにたくさんの毛=ヒゲもじゃ野郎」と嘲り、
対する張裕も負けじと、潞と露(露わ=丸裸)、涿と啄をかけて「潞涿君=口周り丸裸=ヒゲなし野郎」と笑ったのです。
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劉備はヒゲがないことでバカにされていた
この後の文に「劉備にヒゲがないことを揶揄したもの」と解説がついています。
当時、ヒゲは男ぶりの象徴です。
関羽がその見事なヒゲから「ヒゲ」のあだ名で呼ばれたように(『三国志』蜀書)、ヒゲが美しく立派であるほどイケているとされました。
一方、 ヒゲがないのは宦官というイメージがありました。
彼らは男性ホルモンの欠乏によりヒゲが生えなかったためです。
ヒゲがないとマイナスイメージ
袁紹による宦官の大量虐殺が行われた際も、
ヒゲがないというだけで宦官に間違われて殺されてしまった人がいました(『三国志』魏書)。
宦官は男とは見なされない上に、腐敗の象徴・諸悪の根源として印象が悪かったので、
ヒゲなしはそれだけでマイナスイメージだったことでしょう。
にもかかわらず劉備にヒゲがなかったのは、 別に好んで生やさなかったのではなく、
恐らく毛が薄かったか、みすぼらしいので剃ってしまっていたのではないでしょうか
(“潞”という字そのものには薄い・弱いという意味も あります)。
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三国志演義の劉備の外見
最後に、小説『三国志演義』の劉備はどのように表現されているかというと、
「身長は七尺五寸、両耳は肩まで垂れ、両腕は膝を過ぎ、目は自分の耳を返り見ることができ、
玉のような美貌で、脣は丹を塗ったように紅い」となっています。
現代の我々にはピンときませんが、きっと大層な美丈夫の設定なのでしょう。
正義の主役はやはりイケメンの方がウケますもんね。
しかしヒゲについては、肖像画の方には描かれているものの、本文中では特に言及されていません。
関羽も張飛も諸葛亮も曹操も孫権もちゃんと描写があるだけに、 劉備にだけそれがないのは意図的にも思えます。
さて、皆さんは一体どのような劉備像を思い描かれましたでしょうか?
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